羽田空港▼外部環境の変化に対応し、世界一になった羽田空港の歴史

ロシア、モンゴルの空港も運営を支援

――社歴は半世紀とお聞きしました。

【鷹城】1968年に入社しました。当時の羽田空港は国際線と国内線、両方のターミナルをやっていました。成田国際空港の開業までは羽田が非常に忙しくて、1つのターミナルで、年間2000万人ものお客様が利用されていました。

――これまで羽田空港以外の立ち上げにも関わったそうですね。

日本空港ビルデング会長CEO 鷹城 勲氏

【鷹城】78年には成田空港が開港して、免税店や空港施設のメンテナンスなどについてお手伝いをしました。

その後、94年に関西国際空港ができたときも、大阪事業所を作って、私自身、総支配人を務めました。当社が請け負って免税店の運営をする形で関空のお手伝いをしました。

そのあと、中部国際空港ができて、そちらも一部お手伝いをしました。2005年ですね。だから羽田を中心に成田、関空、中部。こういうところの事業に協力してきた。

今は海外の空港からも多くの支援要請があります。すでにパラオの空港運営を手伝っていますし、これからロシア・ハバロフスク、モンゴル・ウランバートルの第2空港でも協力することが決まっています。

今は羽田の第2のターニングポイント

――そして10年に羽田は再国際化します。

【鷹城】それが第2のターニングポイントですね。そしてインバウンドが急増し、それに対応して機能を強化しつつあるというのが現状です。国際化はさらに進展するでしょう。まだこれからも発着枠が確保できれば、もっと増強されていくんじゃないでしょうか? 今は、そういう段階に入っているところですね。

国際線で日本に来られて、国内線に乗り継いで地方に行っていただく。つまり羽田は国内最大のハブ空港としての役割を持っているわけですが、海外に向けては、羽田から日本の産業や文化などを情報発信していく拠点にもなると思います。そのような考えから、事業にそういうものを取り込んでいこうと、さまざまな努力をしているところです。

――例えば、どのような取り組みがありますか?

【鷹城】一例を挙げるなら、ターミナルでは単にものを売ったり買ったりするだけではなく、体験ゾーン的なものを入れて、ゴルフのレッスンが受けられる施設を造りましたし、さらには教育や文化に関わることにも使いたいと思っています。

羽田空港内で営業する(左)ゴルフラウンジ、(右)プラネタリウムなどを見ながら過ごせるカフェ。

私は7代目の社長でしたが、初代社長は、空港免税店を日本で最初に入れたり、国内初のレンタカー事業を始めたりと、非常にチャレンジ精神を持った方でした。

今、何度目かの大きな変化の時代にあって、やはり原点に返って、この羽田という舞台を最大限に活かせるようなチャレンジをしよう、とスタッフに声をかけているところです。