模倣こそがTikTokの面白さといえる
多くのSNSのユーザー離脱の理由として、他のユーザーからのリアクションが足りないことが挙げられる――フォロワーもつかず、いいね数も伸びず、張り合いがなくてやめてしまう。
みんなに見られている感覚が得られなければ、ユーザーはシェアするモチベーションを失ってしまうものだ。そのボトルネックに対して、フォロワーが多くなくても、自分のシェアした動画が多くの人に触れられるようテクノロジーの力で支援がなされるのだ。
TikTokに関連するキャンペーンプランニングを数多く担当する電通のCMプランナー/コピーライターである明円卓氏は、最近ではTikTokの中でテレビ由来のネタを模倣して遊ぶというシーンが増えているということを指摘していた。
そこには、テレビドラマやテレビ広告のシーンも含まれていて、特徴的な仕草ややりとりをユーザーが再現しているという。今後は、「TikTokで見たことあるやつの元ネタCMだ!」「元ネタ番組だ!」という認知動線も増えていくだろう。
そう、大胆に言ってしまえば、TikTokの最大のメディア論的な面白さは、「短尺」でも「音が付く」ところでもなく、ユーザーが模倣し合うという点にあると筆者は考える。さらに言えば、それがガイダンスに沿って動いていくことで自動的に生み出されることにある。アーキテクチャによって生み出される新しい映像体験の質がもたらされているのだ。
TikTokで模倣が広がる仕組み
哲学者のジル・ドゥルーズは1980年代に『シネマ1*運動イメージ』『シネマ2*時間イメージ』という大著を発表したが、それは映画という映像の表現形態への驚きに駆動されていた。
単に映像を撮って記録することとシネマとの間の意味論的な差異に彼は注目したわけだが、筆者は、いまTikTokで展開されている動画群は、(大げさに言えば)そこで論じられているシネマ的なインパクトを持つものではないかとさえ感じている。
音楽に合わせ指示に沿うことで、ユーザーのアクションが動画としてアウトプットされる。そして、それがハッシュタグなどの形で、みんながサンプリングする人気曲として模倣的な動画を広げていく。
これは、かつてない映像表現のあり方だ。「#○○チャレンジ」のような施策を通じて、TikTok側もそうしたあり方を後押ししている。
真似すること、模倣すること。これは生活者の情報行動の特性の一つでもある。かつてフランスの社会学者のロジェ・カイヨワは、「遊び」を「競争」「偶然」「模擬」「眩暈」という四つに分類したが、ここでの「模倣(模擬)」もまた、人々の遊びを構成する要素の主要な一つであった。
ユーザーはTikTokで「遊んでいる」わけで、これはいわゆる「大人のロジック」――ビジネス的な営利目的思考――とは異なる原理である。TikTokという場、および若者が好むメディア一般を理解するために、無視してはならない重要な面だと最後に指摘しておきたい。
その視点から見なければわからないものがあるし、ロジェ・カイヨワによれば、文化とは遊びのうえに成立するものに他ならないのだ。