さて、それほど出来がよく、しかも、社長もほれ込んだP-1だったが、55年12月、伊勢崎製作所で行われた四輪車計画懇談会議の席上で開発中止が決まった。社内の話し合いで淡々と決まったように社史には載っているが、当時のOBに言わせると、百瀬と部下の技術者からなる「百瀬学校」チームは悲憤慷慨したという。
「オレたちはクラウン以上のクルマを作った。そして、クラウンは売れている。なぜうちはスバル1500を出さないのか」
そう言って、経営陣に詰め寄った若い技術者もいた。現在、太田の工場に保存されているスバル1500の試作車を見ると、実にスタイリッシュで洗練された形だ。
初代クラウンがだるまのような、ずんぐりした形をしているのに比べて、スバル1500は飛行機デザインのようにも感じられる。車内のスペースは広いのに、車体は大きくは見えないのである。
だが、会議の結論は変わらず、スバル1500は幻のクルマとなった。
「日産があれば富士重工はいらない」
会議の様子を聞いた、あるOBは言う。
「興銀が新車は出すな、売るなと命令したわけです。当時、富士重工の経営トップは興銀の人間です。業界では富士重工とは呼ばずに、『興銀自動車部』という人間もいたくらいですから。
興銀にとっては生産設備や販売に莫大な資金のいる新しい乗用車なんかを作られては困るのです。だいたい、興銀は当時、日産にいれあげてました。『日産があれば富士重工はいらない』という興銀の役員もいたくらいです。ですから、富士重工に出す金なんて1円もないんですよ。
あの頃、興銀の人間は威張ってましたからね。『東大を出て、富士銀行に入るやつなんかは人間のクズだ。銀行は日銀と興銀だけでいい』と言った興銀の人間もいたんですよ、実際」
このOBが言っていることは半分以上、当たっている。興銀にとって、富士重工に出す金はなかった。
解体の危機にある中、融資は不可能だった
これより5年前のことだ。トヨタが経営危機に陥った時、日銀の名古屋支店長が銀行を集めて、「みんなでトヨタを助けてやってほしい」と、協調しての追加融資を求めたことがある。
その際、大阪銀行(のち住友銀行)が融資を断ったことは知られているが、この時、興銀もまた融資団からは外れている。住友銀行はこのことがあってから長くトヨタと取引できなかったのだが、興銀はトヨタとも取引を続けた。
そして、興銀がトヨタの協調融資を断ったのは、興銀自体がGHQから戦争責任を問われ、解体の危機にあったからだ。そして、興銀が政府系金融機関から普通銀行に転換したのが1950年。トヨタの経営危機の翌年である。