飛行機エンジニアに舞い込んだ「自動車の設計」

伊勢崎の富士自動車工業が小型自動車の開発を始めたのは1952年だった。担当は後にスバル360、スバル1000を開発する百瀬晋六ももせしんろく、現在の自動車製造ではスタンダードになっているモノコック構造をバスボディに持ち込んだ男だ。

富士自動車工業でバスボディの設計に明け暮れていた百瀬は、ある日専務の松林敏夫に呼ばれた。

「百瀬、実は自動車をやりたいんだ。研究を開始してくれないか」

百瀬には否も応もない。

「ほんとかな。ほんとにやるのかな」とも思ったけれど、かつては世界水準の飛行機を作っていた技術者である。中島飛行機出身の技術者たちのなかには「自動車なんて、飛行機に比べれば簡単だ」という、自動車設計に対する侮りを口にする者もいた。しかし、それでも技術者ならば、「ドンガラ」と呼ばれたバスのボディより、自力で動く自動車を作りたい……。自動車設計は彼らが飛行機の次にやりたかった仕事だったのである。

素人が乗るものだからこそ難しい

飛行機設計のプロ集団、百瀬たちのチームは自動車設計の研究に取りかかった。すると、自分たちの考えがいかに甘かったかを痛感したのである。

百瀬は当時、こう語っている。

「飛行機、バスとやってきて、自動車屋になった。試作してわかったことはクルマというのはずいぶん難しいものだなということです。自動車は個人が所有する個人の道具なんですね。そして自分で毎日のように運転し、調整や掃除をする。とても身近な動的道具です、だからユーザーは自分のクルマがよく分かっている。

作る方だって同じです。自分で作ったクルマは自分で欠点がよく分かる。だから、ユーザーはクルマを可愛かわいがってくれるけれど、不満が尽きないのですね」

つまり、飛行機もバスも鉄道も運転するのはプロだ。一方、自動車は素人が操作する。素人の行動、素人の好みが分かっていないと売れる自動車を作ることはできない。

自動車もまた糸川が飛行機設計について、鋭く言ったように、「いい車とはドライバーが乗りたくなる車」なのである。

文献探し、外車の視察、他人の車のスケッチまで

百瀬たちが「P-1 パッセンジャーカー1」と名付けられた初めての試作乗用車の開発を始めたのは1951年末からだった。

百瀬以下、誰も自動車の設計をしたことはなかった。しかも、彼らは外国の自動車会社と技術提携もしていない。ありていに言えば彼らには金がなかった。外国の自動車会社に払う高額なライセンス料はどこを探しても出てこなかったのである。

つまり、自力で設計、開発、生産技術の確立をしなければならない。百瀬は部下と一緒に上京し、東京の洋書店、神田の古書店、国立国会図書館へ通い詰めた。

銀座の洋書店「丸善」では業界では名著として知られていたイギリスの専門書『オートモーティブ・シャシー・デザイン』を手に入れることができた。百瀬はそれをページがり切れるほど読み込み、自社で初めての自動車設計に挑んだ。