「欲しくてたまらない」という欲求が想像しづらい

主治医の松本先生の診断でもあるように、私自身は依存症ではありません。薬物事件を起こしたことからうつになり、その回復のために施設が有効だと認められ、通所が許されました。しかし、アルコールやギャンブルなど薬物以外のアディクションについては、私にとってほとんど知らないことばかりです。最初は、ちょっとした潜入取材のような感覚で過ごしていました。

そんな態度では、問題が出てきます。施設での生活が、全く身に入ってこないのです。

施設では、体験を語ることで自分を見つめ直すプログラムが毎日のようにあり、その中には酒や薬がどうしても欲しくなる話や、やめたいのにパチンコが止まらないという依存症特有の辛さが頻繁に出てきます。

依存症の回復施設ですから、私以外の人は全員立派な依存症者です。こういった依存症の症状の一つである、薬や酒が欲しくてたまらない欲求も、止まらなくなる連続使用(飲酒)も私には経験がありませんでした。私だけがわからないし、共感できない。モヤモヤする気持ちを抱えながら「みんな大変なんだなぁ」と、どこかひとごとに感じる日々が暫く続きました。

「自分が依存症であると認める」ことが何より難しい

また、発言をする際に「依存症の塚本です」と必ず名乗らなければならなかったことも、自分の中で引っ掛かった一つです。12ステップの一番はじめに「アディクションに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認める」というステップがあります。依存症の人にとっては、この「認める」ことが何より難しいと言われています。

依存症の症状が進んでいくと、本当は飲むのも打つのも辛いのに、楽しかった昔の記憶から、まだまだ酒やギャンブルをやり続けたい。また普通に飲めるようになると信じ込み、依存症であることを全力で否定します。だからこそ、認めることが重要で、自分が依存症であると認められないと、その先に進むことができない大事なステップと考えられているのです。

そのため、自ら認めるという意味を込めて「依存症の塚本です」と自ら名乗るのは大事なことでした。私だけ言わないわけにはいかないし、でも何だか嘘をついているような気がして、申し訳ないような複雑な感情です。

担当のSさんに「薬物の問題がある塚本と名乗るのではダメですか?」と提案もしましたが、「その方が、他のみんなが動揺するのでやめましょう」と言われました。今思うと、利用者の仲間たちは、こんな私に文句ひとつ言わずに受け止めてくれたことに感謝しかありません。

「あいつは依存症ではないと公言しているのに、なぜこの施設にいるのか!」と感じた人もいたかもしれませんが、そのような声は私の耳に一切入ってきませんでした。みんなの配慮にもかかわらず、「ここは本当に自分の居場所なのだろうか?」と私は思い詰めるようになります。