「世界のオザワ」も欧州行脚の相棒に

そして、ラビットスクーターを愛車にした有名人とは指揮者の小澤征爾だ。少年ジェットが放映された同じ年の2月1日、小澤は神戸港から貨物船淡路山丸でヨーロッパに向けて出発した。船内には借り出したラビットスクーターが1台。

小澤はヨーロッパ大陸に着いてからの交通費を節約するために自らラビットスクーターの宣伝を買って出た。その代わり、富士重工は無償で小澤にラビットスクーターを貸し出したのである。

小澤は日の丸を描いた同車でマルセーユの港からパリを目指した。著書『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)にはこうある。

「スクーターかオートバイを借りるために、東京じゅうかけずり回った。何軒回ったかしれない。最後に、亡くなられた富士重工の松尾清秀氏の奥さまのお世話で、富士重工でラビットジュニア125ccの新型を手に入れることができた。その時富士重工から出された条件は次のようなものだ。
一、日本国籍を明示すること。
二、音楽家であることを示すこと。
三、事故をおこさないこと。
この条件をかなえるために、ぼくは白いヘルメットにギターをかついで日の丸をつけたスクーターにまたがり、奇妙ないでたちの欧州行脚となったのである」

修業時代を支えた「福の神」だった

小澤はこの時、ヨーロッパでスクーターが故障しても困らないように、工場でスクーターの分解方法や修理方法を学んでいる。マルセーユからパリを目指す途中、若き「日の丸スクーター男」は歓迎を受けた。

「(着いた)翌日、街の中を二時間ほどスクーターでドライブしたが、道がいいせいか実に走りやすい。日本のように年じゅうどこかで道路工事をしているのとは違う。しかしちょっと止まると、すぐに人だかりがして、何やかんやとうるさく話しかけて来る。スクーターに日の丸をデカデカとかかげ、ギターを背負っているので、よほど目につくらしい。変わり者が日本から来たとでも思うのだろうか。中には手をあげて敬意を表してすれちがう車もある。ちょっといい気分だ」(同書)
小澤征爾『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)

結局、小澤はヨーロッパ、アメリカに2年半滞在して、その間、ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位、カラヤン指揮者コンクール第1位、アメリカのバークシャー音楽祭(現タングルウッド音楽祭でクーセヴィツキー賞)を受賞し、ニューヨークフィルの副指揮者になる。

カラヤン、バーンスタインというふたりの巨匠に師事することもできた。小澤にとってヨーロッパ修業とラビットスクーターは福の神だった。

ブザンソンで第1位になってから、小澤は一躍、フランスと日本では有名指揮者になった。仕事も入ってきたこともあり、自動車免許を取る。そのため、実際にラビットスクーターを乗り回した期間は長いわけではなかった。

それでも、事故や故障もなかったから、宣伝マンとしての役目は十二分に果たした。