「俺たちは売っちゃいけないのか」と離反者が続出
「それでディーラー網を全国に作った。うちは神谷さんを手本にしちゃったんですよ。ただし、うちにはトヨタほどの体力はない。それでラビット会を切ったんですが、それが後まで響きました」
“てんとう虫”の名で日本国民から幅広く支持された「スバル360」が1958年に登場する前、本社の特約店会議に出ていたラビット会の人間たちは猛烈な抗議をした。
「どうして、俺たちは軽自動車を売っちゃいけないんだ」
ある幹部は相手にしなかった。
「いや、自動車とスクーターは別だ」
スバル360が出た1958年以降、ラビットスクーターの売れ行きが止まった背景には社会が豊かになり、スクーターから軽自動車という流れができたこともあるが、この時、頭にきて離反した特約店が販売する気を失ったこともあった。
そして、富士重工がトヨタ、日産をお手本にしてディーラー整備を始めた後、ホンダ、スズキは町の自転車屋さんをディーラーにして、軽自動車を売り始めた。
ディーラーを育てた会社と切り捨てた会社の違いだった。ただし、そうした顕著な失敗があったとしても、富士重工は特約店との付き合い方、運営ノウハウを体で覚えることはできた。
スクーターに乗った“ミラクルボイス”のヒーロー
もうひとつ、スクーターが売れてよかったことは会社のイメージが向上したことだった。ラビットスクーターは当時の新メディアであるテレビに登場し、子どもたちから支持を得た。さらに後に有名になる人間が愛車にしたことで知られるようになった。
そのため、ただの「売れた車」ではなく、記憶に残るスクーターになったのである。スバル360、スバル1000というその後の製品もどちらも記憶に残る車になったのだけれど、富士重工にとっての嚆矢はラビットスクーターである。
デザイン、性能は他社のそれと変わらないのに、今もファンがいて、乗っている人がいるのはこの時に生まれたイメージが幸いしているからだ。
ラビットスクーターが子どもたちに圧倒的な人気を得たのは漫画が原作のテレビドラマ「少年ジェット」に登場したからである。「少年ジェット」は1959年から1年半、フジテレビ系で放映された実写ドラマで、ラビットスクーターに乗ったヒーロー、少年ジェットが怪盗ブラック・デビルと闘う物語である。
当時の少年たちは原っぱで風呂敷をマントのようにまとい、ブラック・デビルに扮した友だち相手に「ウー、ヤー、ター」という必殺のミラクルボイス攻撃をした。ミラクルボイスを浴びせられた相手は「やられたー」と言って、草の上に倒れ込む。ラビットスクーターはヒーローの愛車だから、少年たちは大人になったら、あのスクーターに乗りたいとあこがれたのである。