現代旅客機に匹敵するスペックを「400機作る」

彼の構想による仕様を見てみる。

全長45メートル。(ボーイング787は約60メートル)
航続距離 1万9400キロメートル(太平洋の空路はおよそ1万メートル)
爆弾搭載量20トン(B29の2.2倍)。6発エンジン

知久平はこの飛行機を400機、生産するべきと主張した。そのためにはゼロ戦、隼(はやぶさ)など小型飛行機の生産を減らし、かつ、戦艦、巡洋艦などをすべてスクラップし、全力を挙げて富嶽の生産に集中するべしとぶち上げた。

そうして、富嶽という強力な大型爆撃機でアメリカ本土を一撃し、アメリカ国民の厭戦(えんせん)気分を高めて、講和に持ち込もうというものだった。

富嶽は、一度は陸海軍が共同して開発することに決まる。中島飛行機の三鷹研究所内に組立工場の建設も開始された。ただし、陸海軍の幹部の指示により、エンジンの出力は下げられ、爆弾搭載量も20トンから15トンに減らされた。

研究に着手してから、開発スタッフはすぐにさまざまな壁にぶち当たった。まず高空を飛ぶためには機体の中に与圧キャビンを作らなければならない。次に機体に見合う外径が1メートルを超える航空用タイヤを開発しなければならない。さらに、巨大タイヤを引き込み脚にする工夫とその製造法も考えなくてはならなかった。高空を飛ぶことと、機体をスケールアップすることだけでいくつもの課題を克服しなければならなかったのである。

300万点の部品をそろえる工業力があるはずなかった

大型飛行機の製造は航空会社に技術力があるだけではできない。タイヤ、ガラス、ゴムといった基礎技術、与圧室設計、機体材質の開発など、その国の工業力が反映される。例えば自動車1台の部品数はおよそ3万点と言われている。そして、ジェット旅客機に至っては300万点もの部品がいる。300万点の部品を作るすそ野の産業が育っていなければ大型飛行機を作ることはできない。

アメリカには大企業、中小企業を問わず、さまざまな分野に技術者がいた。巨大タイヤでも、開発を依頼しさえすれば調達することができたのである。しかし、日本には幅広いジャンルで生産技術を持つ会社群が存在していなかった。そのため、すべてを中島飛行機が内製しなければならない。三鷹の工場の中で、何から何まで手作りしていたので、開発は遅々として進まなかったのである。

つまり、どう考えても、400機の富嶽を生産するなんてことは夢想だった。隼(はやぶさ)、ゼロ戦といった小型の戦闘機ならば日本人の努力と熱意と工夫でなんとか作ることができたけれど、富嶽は最初から、「飛ぶはずのない飛行機」だったのである。