106歳になっても“あの日”のことを覚えている

大正元(1912)年生まれで106歳になる太田繁一は中島飛行機に入社し、戦後はスバルに勤めた。仕事を離れてからは湘南の一軒家に暮らし、散歩とぶら下がり体操器で健康を支えている。100歳を超えてからも病気ひとつしたことはなく、頭脳は明晰そのものだ。

太田はあの敗戦の日、8月15日にどこにいて、何をやって、何を食べたかまで忘れたことがない。

「何しろ特別な1日でしたから、忘れようと思っても忘れられません。私たちはさつま芋ばかり食べていた。前田邸にあった中島飛行機本社の庭で作った芋を食べました。当時、私は社長秘書でした。しかし、社長は知久平先生ではありません。弟の喜代一(きよかず)さんです。もっとも終戦の頃は第一軍需工廠(しょう)という国家管理の軍需工廠になっていましたから、社長という名称ではありませんでしたけれど……。

丸の内から駒場の前田さんのところに疎開したこともよく覚えています。ふたつの建物のうち、洋館では750人が仕事をして、和館は群馬の太田にあった工場から出張してきた人間が宿泊する場所として使っていました。

そうそう、あそこの庭は芝生でしょう。それをはがして芋畑にしたのですが、いい芝生ってのは、はがすだけで大往生でね、芋畑にするには大変な苦労をしたことを覚えています」

負けることは、技術者が1番よく知っていた

敗戦の日、朝から空襲はなかった。アメリカ軍はすでに戦闘を終了していたのである。

ひどく暑い日の正午、太田をはじめ、社員たちは汗を拭きながら芋畑に直立し、昭和天皇の玉音放送を聞いた。

野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」。放送が雑音交じりでよく聞こえなかったせいもあったが、感情を爆発させたり、慟哭(どうこく)した社員はひとりもいなかった。大方の社員の反応は「ついにこの日がきたか」といったものである。敗戦の年の夏には日々の空襲に際して、日本の迎撃機が上空へ上がっていく様子は見られなくなっていた。一方的に焼夷(しょうい)弾や爆弾を落とされて、消火活動に力を尽くすしかなかった。

戦場はすでに前線ではなく、日本国内だった。そういった事実を体験していると、都市に暮らす国民は誰しも、「負けは決まった」と分かっていたのだろう。

それに太田たちが携わっていたのは軍用機の製造である。その頃の主製品は陸軍に納める戦闘機の隼、疾風であり、海軍の戦闘機ゼロ戦(三菱製)にはエンジンを供給し、生産も請け負っていた。他にも月光(げっこう)、彩雲、橘花(きっか)といった軍用機の開発、試作を始めていた。そして、あらゆる軍用機を作る際、使っていた工作機械はほぼアメリカ製だったのである。また、開戦まで、飛行機の燃料になる石油はアメリカからの輸入品だった。

つまり、軍からの情報も入る。機体の製造に使う材料が払底していることもよく分かっていた。「このままではうまくいくはずがない」ことは中島飛行機社員なら口に出さなくともよく理解していたのだった。

※この連載は2019年12月に『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)として2019年12月18日に刊行予定です。

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