和平交渉の切り札にどうしても必要だった

壁に当たったまま富嶽の開発作業は続いてはいたものの、1944年7月、マリアナ沖海戦に負け、サイパン島が玉砕したことで、富嶽を支援してきた東条英機は首相を辞職する。

すると、一緒に作業していた軍幹部から「本土防空戦のための戦闘機開発を優先する」と言い渡され、富嶽の開発は中止されてしまう。結局、試作機も製作されずに終わった。

この時、知久平はどうして、日本の工業力では実現不可能と思われる富嶽を400機も作ろうと提案したのか。彼は400機でアメリカ本土を空襲すれば勝てると思ったわけではなかった。

日本がずるずると負けている時期に、相手に大きなショックを与えればそれが和平交渉の契機になるかもしれないと考えたのだろう。真珠湾攻撃、マレー半島、シンガポール攻略など、日本軍の威勢がいいうちに「和平交渉をしよう」と言ったとしても、世論は納得しない。

しかし、戦局が有利に運ばなくなり、庶民の心に不安が兆し始めた時こそ、和平を言い出す機会だと彼は思った。

ただし、一方で勝ち始めたアメリカの政治家、国民はなかなか講和には納得しないだろう。そこで、アメリカ本土に大きなショックを与えることが必要だと考えたのだった。「日本にはまだ力がある」ことをアメリカに気付かせるにはどうしても超大型爆撃機が400機必要だったのである。

開発途上で敗戦、残ったのは「一流」の自負だけ

ここまでの考え方は間違ってはいない。知久平は行動力のある男だったから、東条英機という強い味方を作ることもできた。しかし、問題は開発だった。総合的な技術力がなく、時間がかかるうちに、ずるずると負け戦が続く。そうして、日本は乾坤一擲の計画を実施することができないまま、敗戦に向かって突き進んでいった。

敗戦後、中島飛行機に残されていた飛行機はアメリカ軍が研究のために持って帰ったものを除いて、すべてガソリンをかけて燃やされた。アメリカ軍が研究のために「整備せよ」と命令して持ち帰った機体は連山、彩雲(さいうん)、そして疾風(はやて)だけで、ゼロ戦、隼はすでに研究され、旧型の飛行機とみなされたのだった。

提供=SUBARU
中島飛行機の研究所

中島飛行機の各工場にあった滑走路には碁盤の目状に爆薬が仕掛けられ、二度と飛行機が滑走できないよう徹底的に破壊された。

こうして敗戦の後、中島飛行機には何も残っていなかった。占領軍が持っていかなかったのは旧式の工作機械などの工場設備、わずかな材料、生活の道具と、そして、「オレたちは一流だ」という自負を持つ飛行機屋の魂だけだった。