ノーベル賞は受賞するのにアメリカに勝てない

さて、意外に思うかもしれないが、僕は、今日この時点でも、アメリカ人のほうが日本人よりも「頭が良い」「才能において優れている」というような感覚を持っていない。

ところが、事実として、1990年代の後半に巻き起こったIT革命以来、次々と世の中に送り出されては巨大化を続け、全てを飲み込むかのように見えるグーグル(検索エンジン)やフェイスブック(SNS)、テスラ(電気自動車)やウーバー(タクシー配車アプリ)といった会社たちは、アメリカ、しかもこのシリコンバレーから生み出されてきた。

日本の企業でこうした企業に太刀打ちできるものは、今のところ見当たらない。なぜこんなことが起こったのだろうか?

僕は中学生の頃、いつか物理学者になりたいと思い立ち、大学では物理を専攻した。毎年のように日本人がノーベル物理学賞を受賞する機会に恵まれている中で、なぜこの新産業創造ともいえる分野では、日本は完全にアメリカの後塵を拝しているのだろうか?

自分自身がシリコンバレーに飛び込んで、毎日泥だらけになって現地の人間と話し、交渉し、ぶつかり合い、彼女たち彼らがビジネスの世界で成功を手にすることができる本当の理由のようなものに触れることができたように思う。

文化、教育、個人の能力の集合体が革新を生んでいる

結論から言おう。それは何も個人の力量、才能というだけで片がつくような話では無かった。アメリカという国、北カリフォルニアという場所における、ある種の教育に裏打ちされた、一人ひとりの物の考え方、それが集合概念として昇華した、北カリフォルニア(シリコンバレー)の文化そのもの。それらが、個人の才能と結び付くことで、針の穴を通すような成功、イノベーションを後押ししているということを、僕は目の前で、まざまざと見せつけられた。

この、ある種空気のような概念を、一言で伝えることは至難の業だ。新産業の創出は、残念ながら頭の良しあし(だけ)で決まるレースではない。スピードこそが勝利を収めるための本当に必要な要素なのだが、このスピードというのも、創業者個人の能力(せっかちかどうか?)ということだけでは語りきれず、組織としての意思決定のスピードを高めるために、本当にいろいろな組織的、社会的、制度的な仕組みが必要になってくる。