成功の「種」は19世紀後半に蒔かれた
シリコンバレーは、今でこそアメリカのベンチャーキャピタルによるファンドの代名詞として、大半の企業がここに拠点を構え、「シリコンの谷」として知られているが、今から150年ほど前にはオレンジ畑や野草地、農場に囲まれた一帯にすぎなかった。
シリコンバレーの歴史は、すでにいろいろな文献に書かれている。本稿は、その物語をベンチャーキャピタルの歴史という文脈の中で解説していく。
サンフランシスコ湾の湾岸地域一帯、5つの郡にまたがるかなり広大な地域の成功の「種」は、19世紀後半に蒔かれた。
この地がベンチャー投資を発展させながら拡大できたのは、3つの重要な要素が重なっていたことが大きい。
②ハイテク業界の発展を後押しした政府の軍事支出
③この地域特有の文化的、法的、物理的な環境
である。イノベーションを促す強力なクラスターが形成され、実績が未知数の人々や技術、製品に資金を提供するベンチャーキャピタルへの需要が生み出されたのである。
シリコンバレーに最も貢献した人物
ここではフレデリック・ターマンという人物の貢献について掘り下げてみたい。
ターマンは1922年にスタンフォード大学を卒業、マサチューセッツ工科大学(MIT)で電気工学の博士号を取得し、3年後に母校に戻った。1941年にはスタンフォード大学の学部長を務め、1955年には大学の副学長に就任。
こうした職務を果たす中で、科学を工学につなげ、学究の世界と地元企業とを結びつけて、学問と産業の双方で優れた成果を上げる戦略を考えるようになった。ターマンは、シリコンバレーの今日の姿をつくりあげるのに最も貢献した人物と評される。
スタンフォード大学に勤めていたターマンに、学校に利益をもたらそうという動機がなかったわけではないだろう。当時は貧弱だったスタンフォード大学の財政を強化しようと、起業家たちにスタンフォードのキャンパスを訪問するよう働きかけた。
ここで重要なことは、彼が起業家たちの資金調達ニーズに、大学全体の戦略をうまく組み合わせたことなのである。1937年、ターマンは大学の理事会を説得し、大学が研究者たちに付与された特許を所有する許可を得た。
この動きは重要だった。産学連携を進めるには、物理的なスペースの提供と共有が必要だとターマンは考えていたからだ。