米国内で存在感を持つ企業が次々と生まれる

軍との契約は一度獲得すると他社に奪われる心配はさほどなかったが、ベイエリア(シリコンバレー)の各社は生産性を高めるために、協調的な企業努力を怠らなかった。

1942年、フェデラル・テレグラフのエンジニアたちは、これまでにない真空管製造手法を開発し、歩留まりが35%から95%以上に跳ね上がった。その結果、生産量と売上高も急拡大し、売上高は月当たり4万7000ドルから60万ドルを超える水準まで伸びている。

1941年から44年まで、ヒューレット・パッカードは電子測定器と測定用受信機の製造ラインを改善して、生産高は3万7000ドルから100万ドルと27倍になったが、従業員数の増加は9名から100名と、11倍にしか増えなかった。

スタンフォードで生まれたヴァリアン・アソシエイツは1949年から59年までの間にクライストロン真空管の売上高を125倍にしたが、従業員数は4倍になったにすぎない。その結果ヴァリアンは、マイクロ波管ではゼネラル・エレクトリック、レイセオン、RCAを追い抜き、アメリカ最大のメーカーになった。

熟練労働者も全米から集まるように

連邦政府の資金流入とともに人材も集まるようになった。

1940年7月から1945年7月までの5年間で、カリフォルニア州全体の人口は、移民の増加で198万7000人増えた。ハイテク・セクターの雇用者数は、各社が軍からの増産需要に応えるために規模を拡大したため、1960年には5万8000人を超えた。

サンマテオとサンタクララという2つの郡だけで、電子部品製造の雇用者数は1000人未満から1万人まで増大している。

こうした動きの結果、サンノゼは最終的に、アメリカの大都市圏で熟練労働者が最も密集する地域となる。優秀なイノベーターがベイエリアに移住して働くようになると、恐らくその動きに刺激され、熟練労働者の移住も一段と進んだ。