軍との契約が切れた後に行ったこと
ベイエリアの起業家たちは、軍との契約が後退しても、底力を発揮した。
1960年代に、ロバート・マクナマラ国防長官はハイテク機器への軍の支出を削減した。国防総省も、たとえばマイクロ波管の購入金額を1962年の1億4600万ドルから1964年には1億1500万ドルへと削減した。
このコストプラスフィー契約(製造費用に加え、保証された固定手数料が支払われる契約)は儲けが大きかったので、地元製造業者を支えてきたが、1960年から65年までの間に、全契約に占める割合は35%から15%へと低下した。
ベイエリアの各社は、イノベーション能力を示すため、製造ラインを変更してこの新しい現実にすぐに適応した。ベイエリアの企業は社内の経営資源を再配分したが、この適応力の高さは他の地域には見られなかった。
人材は東海岸→西海岸へ
それに対して、米国を代表するコンピュータ企業の一つDECを輩出したボストンの「ルート128」地域〔ボストンを半円形に取り囲む環状高速道路。この一帯にハイテク企業が集まっていた〕は、ベイエリアとは同じようには自己変革できなかった。
製品ラインの変更に時間がかかったのである。たとえば、東海岸で軍部への依存度が飛び抜けて高かった軍需製品メーカーのレイセオン社は、1960年代後半になっても製品の55%以上を軍に納品していた。
それ以降も、ルート128地域のスタートアップ企業にはベイエリアほどの勢いがなかった。
1959年から76年にかけて、北カリフォルニアでは40社を超える半導体企業が設立されたが、マサチューセッツ州で創業したのはわずか5社である。他の企業の不景気も重なって、1970年代前半のルート128周辺のハイテク産業では3万人分の雇用が失われた。
70年代半ば頃には、ルート128の景気後退がいっそう深刻になり、雇用と生産活動の重心が西へ西へと急速に傾いていく。ベンチャーキャピタルがハイテクのビジネス機会の最も大きな地域に引き寄せられるのは偶然ではなかったのである。