「之でどうして戦争に勝つことが出来るか」
10日深夜0時3分、宮城の御文庫附属室(地下壕)で最高戦争指導会議が開かれた。天皇もここに臨席した。議題は、ポツダム宣言受諾の可否だった。会議では、天皇の国法上の地位存続のみを条件として受け入れるべきだと主張する東郷外相案と、それに加え、保障占領の拒否など三条件を付け加えて受け入れるべきだと主張する阿南惟幾(あなみこれちか)陸相案が激しく対立して、容易に決着をみなかった。
午前2時すぎ、鈴木首相は天皇の決断を求めた。天皇は本土決戦の準備が整っていないことを指摘した上で、
と、外相案での受諾に同意した。第一回の「ご聖断」だった。政府はただちに連合国側に条件付きで受諾する旨を伝えた。
果たして12日、連合国側から回答が寄せられた。それは、天皇の存在を間接的に容認するものだった。これで果たして国体を護持できるのか。このまま受諾するべきだという主張と、連合国に再度照会すべきだという主張が、またも激しく衝突した。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び――」
かくて14日、ふたたび御文庫附属室で御前会議が開かれた。天皇は鈴木首相らの意見を聞いたあと、つぎのようにポツダム宣言受諾の意志をあらためて示した。2回目の「ご聖断」だった。
このときの天皇の言葉については、この日の御前会議に出席した下村宏(海南)国務相の著作『終戦秘史』に記されたものが広く出回っている。下村は直後に記録を書きとどめ、さらに左近司政三国務相、太田耕造文相、米内光政海相の手記と照らし合わせ、鈴木首相の校閲も得て、万全を期したという。
反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変りはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。[中略]
さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてはじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。[中略]
私は明治大帝が涙をのんで思い切られたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。今日まで戦場に在って陣没し、或は殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ、私はいつでもマイクの前にも立つ。[中略]この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。