だから、信頼できる学者を連れてくれば、みなが納得し、解決できるという考えは失敗に終わる。そもそも、ほとんどの人は自分の考えや価値観に近い学者しか信頼しないからだ。

ワクチンや遺伝子組み換え作物などの問題で、与党と野党が常に対立しているのは、そういう構図があるからだ。「(専門家は)安全というけれど、安心できない」は、市民の感情を重視する政治がからむだけに、この構図にどう対処するかがリスクをめぐるコミュニケーションの最大の課題である。

「安全ではないけど安心」という感覚

ニュースの世界でもうひとつおもしろいのは、「安全ではないけれど、安心する」というケースだ。たとえば、福島第一原発事故が起きた2011年秋、こんな記事(朝日新聞)があった。東京の子供が鼻血を出し、親は不安にとりつかれた。しかし、ある医師が「それは放射性物質のせいかもしれない」と説明したら、安心できたという内容の記事だ。もちろん東京に住む子供が福島の原発事故の放射線で鼻血を出すことは科学的にはありえないが、本人の意識の世界では、「危険な状況でも原因が分かって安心する」という状況はありうる。

皮肉な見方をすれば、危険な状態でも、みなが安心していれば、だれも文句をいう市民はいない。危険な状態を改善せずにみなを安心させる方法があれば、それはそれで立派な解決策になるということだ。

アルコール(発がん性あり)は、その危険性にもかかわらず、意外にみな安心しきって楽しんでいる。不思議である。たばこを吸う人の心境も似ているかもしれない。客観的にがんの死亡率が上がるという大きなリスクがあっても、不安を感じていなければ、それはそれで完結した世界であり、他人への悪影響(受動喫煙や医療への公的支出の増大など)を除けば、ややこしい問題は生じない。その意味では、危険イコール不安(安心できない)とは限らない。

多少のリスクはあっても、それが受け入れられるリスクだと自覚すれば、安心できるわけだ。「リスクはあっても、安心できる」という状況が、理想的なリスクコミュニケーションの目標かもしれない。