一方、メディアは安全と安心のどちらを重視しているのだろうか。予想される通り、市民の感情や弱者の気持ちを大切にするメディアは、「安全といわれても、安心できない」という市民の素朴な声をニュースに取り上げやすい。

築地市場の豊洲移転問題でベンゼンやヒ素が少しでも検出されるだけで、記者たちが大きな見出しの記事を書くのは、市民の安心志向に応えるものだ。「ヒ素が環境基準を少し超えて検出されたくらいで食の安全への影響は全くありません。市民のみなさんの不安は根拠のないものです。安心してください」といったニュースを書く記者は一人もいない。これからもいないだろう。

市民の感情を逆なでするようなニュースは、市民を怒らせるだけである。市民の不安に寄り添うニュースが良いニュースなのである。市民感情に逆らって、「科学的には安全です。心配は無用です」という記事を書くことは私の経験から言って、相当な勇気を要する。

ニュースになる構図は決まっている

では、安全と安心の関係はどうなっているのか。安全と安心の関係を表す構図は4つの次元で表せる。

「安全なので安心だ」
「安全だけど、安心できない」
「安全ではないけれど、安心だ」
「安全ではないので、安心できない」

の4つだ。

ニュースの観点から見ると、「安全だから安心できる」と「安全ではないので(危険なので)、安心できない」は当たり前過ぎて、ニュース価値は低い。「科学者が安全だといっているので、私は安心できます」と叫ぶ市民がいても、その声をひろって、ニュースにする記者はいないだろう。

ニュースがもっとも着目するのは「安全だけど、安心できない」という状況である。福島原発事故後の放射線リスク、子宮頸がんなどを予防するHPVワクチン、遺伝子組み換え作物、食品添加物などの問題は、すべてこの「いくら科学者が説明しても分かってもらえない」という構図に入る問題である。国会で野党の議員はたいてい、この「国や科学者は安全だというが、安心できない市民たちがいる」という視点で追及している。安全よりも安心を重視した質問ばかりである。

人は自分の信じたい「専門家」しか信じない

安心できるかどうかは、専門家への信頼がカギを握るという考えもある。確かにそのとおりだが、信頼できる専門家がそもそも市民によって異なる。

たとえば、子宮頸がんを予防するHPVワクチンの有用性を強調する学者は、そもそもワクチンの被害者たちから信頼されていない。HPVワクチンに反対する市民たちが信頼する学者は、国や学会の主流にはいない。おそらく、どんな分野でも、どんな市民も、それぞれの考えから信頼できる学者像が異なるだろう。