カナダで身につけた自己効力感

畳職人になる気満々の辻野さんに対し、母親は意外なことを言い渡します。「簡単にうちで働けるとは思わんといて。海外に行ってきなさい」と。そして、辻野さんはカナダ・バンクーバーに3年間、留学することになります。

4代目 辻野福三郎(辻野佳秀)代表取締役社長

ここで登場するのが経営学の2つ目のキーワード「自己効力感(Self-esteem)」です。経営学では、さまざまな心理実験などを用いて、人が「自分でもできるのではないか」という自信を持つことが、その人のモチベーションを高め、組織を強くするうえで非常に重要といわれています。実際、辻野さんがカナダで身につけたのは、この自己効力感だったようです。「それまではちょっと嫌なことがあったら逃げる性格だったんです。でもカナダでは、そのままでは何もできなかった。言葉が全く通じない環境で、日常生活を送るのにも挫折の連続でした。カナダでの3年間の経験が、『何でも乗り越えられる。何とかなる』という強い心をつくってくれたんです」。

3年間の留学を終えた辻野さんは社会人経験を積みたいと、1度は台湾の商社に就職を決めます。しかし、そのことを親に話すと「すぐにでも家業を手伝ってくれ」と言われます。

じつは実家の畳店では、大きな変化が起きていました。震災後の特需で売り上げが伸びたため、当時社長だった父親が数億円を投資。300坪ほどの土地に工場を新築していました。しかしほどなく特需が終わり、需要は一気に減少。畳の価格も半値までに下がり、経営は逼迫していたのです。

「でも日本に帰って工場を見たとき、僕は『親父、スゲェ』って感動したんです。それは僕が思い描いていた通りの工業化された工場だった。親父は、僕の知らないうちに日本一の畳屋に向かって、一歩踏み出していたんです」

この父親の事業をさらに飛躍させたいという思いで、辻野さんは帰国し、家業を手伝います。ただ、入社した辻野さんを待ち受けていたのは多くの試練でした。

「畳屋は昔からの職人さんたちの仕事です。そこにカナダ帰りの20歳の息子が入ってくるわけでしょう? 入社の挨拶で僕、『この会社を日本一の畳屋にしたいです』と言ったんです。当然、『なんだあいつ』って感じですよ(笑)。ほとんど無視されて。でも、英語も喋れず、現地の文化もわからず、何の力もないのにカナダに行ったときに比べれば、楽だと感じたんですよね」

入社したての辻野さんが逆境を突破する原動力になったのは、まさにカナダで身につけた自己効力感だったのです。辻野さんは周囲に信頼されるためにも、まずは職人の技を身につけようと、皆が帰った後に父に技術を教わって練習をしました。結果、3カ月で畳作りの基本的な技術を身につけ、徐々に従業員と会話ができるようになっていったといいます。

技術を身につけた辻野さんは、次に組織をどうすれば成長させられるだろうかと考え始めました。松下幸之助などの本を読み漁り、色のついた畳を商品化したり、畳の座布団を作るなど、商品開発も行いました。当時はほとんど売れなかったそうですが、言い出したことを自ら実行して成果を積み重ねていくことで、父親や職人の信頼を勝ち得ていったのです。