恐妻家で偉くなった、男たちの共通点

秀吉は北政所の影響力を認めていたので、生前よくご機嫌取りをしていました。神経痛だと聞けば、あそこの温泉がいいと手紙も書いた。ただ、最後は老人性の認知症が進んだこともあって、操縦しきれなくなった。秀吉の死後、北政所は家康について、加藤清正らも従いました。それが関ヶ原の勝敗を分けたのです。

鬼嫁の扱いについて、頼朝や秀吉を上回る巧みさを見せた男もいます。お江(崇源院)を妻にもらった、徳川2代将軍の秀忠です。世間では、秀忠は2代目の暗愚な将軍で、お江は将軍を尻に敷く高慢チキな女性という印象があるかもしれません。たしかにお江は織田信長の姪、豊臣秀頼のおばという血筋。秀忠より6歳年上で、お江自身は3度目の結婚となれば、カカア天下なところもあったのでしょう。ただ、お江の鬼嫁ぶりは、秀忠にノセられてやっていた面があった。根っからの鬼嫁というより、秀忠の掌の上で鬼嫁を演じさせられていたのです。

秀忠は聡明だった、というのが私の評価です。徳川幕府が長期政権になったのは「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」といった法律が機能していたから。つくったのは秀忠です。これはお飾りのボンクラ将軍では無理。また、秀忠は福島正則など、豊臣ゆかりの大名を次々に改易させました。これも家康の時代にはできなかったことです。

さらにすごいのは、これらの政策を家康の名前でやったという点です。自分が前面に出て強権をふるえば、何かと軋轢が起こる。そこで自分は陰に徹して徳川幕府の礎をつくり、3代目の家光に引き継がせた。お江が鬼嫁だというイメージも、おそらく秀忠が凡庸さを装うための演出。恐妻家を演じることで、自分を目立たない存在にしたわけです。

秀忠はお江を恐れて側室を持たなかった、といわれています。しかし、普通に浮気はしていた。のちに会津松平家初代の保科正之は、秀忠が女中に手をつけてできた子どもです。

頼朝や秀吉のようにリスクを取りつつ鬼嫁の力を利用するか、秀忠のように鬼嫁を自分の隠れ蓑に使うか。アプローチは違いますが、歴史をつくる男たちに鬼嫁は欠かせない存在なのです。

▼歴史を大きく動かした鬼嫁2タイプ
名実ともに旦那を従える「真の猛女」
北条政子(1157~1225)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻。頼朝の死後、2代将軍の実子・頼家と対立し幽閉させた。頼家はその後、北条の兵に討たれる。3代将軍に次男の実朝をつけたが、執権となった父、北条時政が実朝殺害を目論んだため、出家・隠居させた。実朝の死後は、実質的に将軍代行となり「尼将軍」と呼ばれる。朝廷と幕府の関係が悪化して、後鳥羽上皇が弟・義時追討の宣旨を出したときは、動揺する御家人を前に名演説を行い、幕府軍の士気を高めて勝利に導いた。
聡明な旦那がつくりあげた「仮面恐妻」
お江(崇源院)(1573~1626)
浅井長政の三女。母は信長の妹お市で、姉の茶々(淀殿)は秀吉の側室となり秀頼を産んだ。お江自身は、のちに江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠の正室となり、2男5女をもうけた。長男の竹千代(家光)より次男の国松(忠長)を溺愛。国松を3代将軍にしようと画策し、竹千代の乳母・春日局と対立。家康の裁定で家光が将軍になるが、こんどは家光のお世継ぎ問題が勃発。大奥を舞台に春日局とバトルを繰り広げた。
加来耕三(かく・こうぞう)
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業後、同大学文学部研究員を経て、現在に至る。「歴史研究」編集委員。テレビ・ラジオ番組の監修・出演に加え、著書も多数。近著に『坂本龍馬の正体』(講談社+α文庫)。
 
(構成=村上 敬)
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