リーダーを失ったモルモン教は、新たにブリガム・ヤング(1801-1877)を大管長として選出し、集団で西へ移動した。1847年6月、彼らはユタ準州(現・ユタ州)を移住地とし、初代知事に就任したヤングのもとで開拓・都市建設を行った。ユタは急速に発展したが、アメリカ政府との軋轢が深まり、1857年5月にはユタ戦争が勃発する。
この戦争の要因のひとつは、先に述べた多妻婚であったといわれている。アメリカはピューリタンによって建設された国家で性倫理に非常に厳しく、多妻婚が堕落とみられていた。内乱は短期間で終結したが、政府との冷戦状態は続いた。だがユタは比較的孤立した土地にあったため、政府の干渉も限定的であり、モルモン教の信者たちは自分たちで理想の都市建設を行うことができた。
ユタが独立を維持することが難しくなったのは、大陸横断鉄道が敷設された南北戦争後だ。1877年、連邦議会で多妻婚を禁じる「エドマンド・タッカー法」が採択された。また、ユタ準州の州への格上げ問題なども起こり、1890年、ヤングの後を継いだウィルフォード・ウッドラフ大管長が「神からの啓示」という形で多妻婚の廃止を宣言する。以降、モルモン教は厳格な一夫一婦制をとり、違反者を破門するようになった。
明治時代に来日した宣教師たち
モルモン教と日本との関係は、1872(明治5)年にさかのぼる。
不平等条約改正などを目的として渡米した岩倉使節団がワシントンに向かう途中、大陸横断鉄道が雪のため動けなくなり、ソルトレイクに滞在した。使節団はソルトレイクでモルモン教会に歓待を受けたようであるが、同行した久米邦武や木戸孝允が、アメリカという文明国家において多妻婚が行われていることに驚いたと記録されている。
モルモン教が日本にやってくるのは、1890(明治23)年の大日本帝国憲法の施行が最大の要因になっている。憲法によって一定の信教の自由が保障されたため、モルモン教本部は日本への布教を決定した。
1901(明治34)年8月、のちに大管長となるヒーバー・J・グラントを伝道部長とした4名の宣教師が横浜に到着した。当時の時事新報には、次のような記述がみられる。
ここから読み取れるように、すでに日本ではモルモン教が多妻婚を行っていたことが知れ渡っていたようだ。