ゲームをしているほうが好きな子どもでした
【田原】武地さんは広島生まれで、小学校5年生のときお母さんの仕事でアフリカに移り住まれる。お母さんは何をされていたのですか。
【武地】医者です。青年海外協力隊として、マラリアの研究のためにマラウイ共和国で1年半暮らしました。
【田原】言葉が通じないでしょう。暮らしにくくなかったですか。
【武地】通じないです。何を話しているのかわからないので、授業中はずっと窓の外ばかり見ていました。
【田原】もともと人と話すのは好きじゃないとおっしゃっていたものね。
【武地】はい。人としゃべるより、1人で漫画を読んだりゲームをしているほうが好きな子どもでした。
【田原】帰国後の勉強が大変だったんじゃないですか。
【武地】中学にあがる直前に広島に戻ってきました。漢字やカタカナをかなり忘れていて、中学校では小学校1年生の勉強からやり直すことに。何とか追いつけましたが大変でした。
【田原】大学は大阪大学の工学部です。どうして工学部に?
【武地】高校のときに『風の谷のナウシカ』を見てから環境問題に興味を持って、大阪大学の環境・エネルギー工学科に入学しました。
【田原】ところが、大学では海外ボランティアのサポートを熱心にやっていたとか。どういうことですか。
【武地】海外でインターンシップをしたい学生に向けて勤務先を紹介するアイセック(AIESEC)という学生団体で活動していました。アイセックは世界各国にあって、僕はインターンシップに行きたい学生を日本で集める担当をしていました。
【田原】大学に行きながらデザインの学校にも通ったそうですね。
【武地】グラフィックデザインを勉強するために週3で夜間のスクールに通いました。そこで学んだことを生かして、インターン生募集の説明会のチラシをつくったりしていました。
【田原】大学を卒業後は?
【武地】人の心を動かす仕事をしてみたくて、就職活動では広告業界を志望しましたが、結局すべて落ちてしまいました。最終的に入社したのは、スマホのアプリをつくっている会社です。そこでゲームアプリの企画をしたり、サービスの設計や営業の仕事も経験させてもらいました。
【田原】その会社は2年でお辞めになる。どうしてですか。
【武地】僕はデザインならできるけど、コーディングができません。企画するのに自分ではつくれないことにもやもやする思いがあって、会社を辞めて勉強することにしました。参考書を買って独学で半年、家に引きこもって勉強していました。結局、プロのプログラマーとして活躍できるほどのスキルは身につかなかったですが、エンジニアの世界を垣間見るくらいのことはできたと思います。
【田原】それから?
【武地】ほかのスタートアップでアルバイトをしながら、仲間とIoTのガジェットをつくりました。それを商品化して販売するために2014年に会社を立ち上げました。