かつて企業が家族的な役割を担っていた時代があった。それが「ブラック企業」という呼び方が定着して以来、少し大げさな言い方かもしれないが、企業はまるで犯罪予備軍かのように監視される対象になっている。就職先選定の場合はなおさら、その企業が良い製品を作っているか、良いサービスを提供しているかよりも、関心は“ブラックかどうか”にある。政府の推奨する「働き方改革」は、多くの面で実現には程遠い状況ではあるが、一方でこれだけブラック企業を嫌悪するムードが高まっている実態を見るに、少なくとも意識改革という面ではある意味で「成功」している。
そんな現実を目の前にphaさんは、働けない人は働かなくていい。自分なりに頑張っていればいい。業務内容や職場環境という具体的なものではなく、そもそも働くということに向いてない人もいる、と番組内で説く。
「仲間とか場とかを大事にして生きていくと、セーフティーネットになる」
会社にも行きたくない、実家にも居づらい。人と上手にコミュニケーションができない、家族ともうまくいかない。それでも幸せに生きていく方法はある。そのために、自分は居場所を作るのだと。働いていないことが、社会にとって害なのかもしれないなんて思わなくていい。そういう人のほうがおもしろい。おもしろい人には生きていてほしい。だからシェアハウスをやっている。お金はないけど、支援してもらっている分だけ、還元したい。番組回タイトルの「会社と家族にサヨナラ…ニートの先の幸せ」とは、そういう意味だ。怠惰の結果ではなく、後ろ向きの選択でもなく、思想と哲学に基づいた「働かない」生き方は、非常にラディカルな現代への回答だった。
サバイバル術としての無職の助け合い
コミュニケーション、コンテンツ、情報や知識など、あらゆるものの価値を激変させたインターネットは、人の生き方にも大きな影響を及ぼした。そのひとつが、「働かない」生き方なのだ。田舎暮らしで農作物を分け合うように、都市部においても、人とのつながりが生活の糧になり、働かずとも生きていける。とにもかくにも働くことが前提で、所属する会社や収入でその人を判断する価値観は、まだまだ根強いとはいえ、もはや絶対的な価値ではなくなってきた。phaさんの、「働かない」けれど、私利私欲に走らず、利害関係のもとに成り立つ付き合いでもなく、偶然の出会いによってもたらされた小さな優しさに感謝しながら、心身ともにできるだけ消耗しないで生きる暮らしは、これからの時代を生き抜くためのサバイバル術として捉えることはできないだろうか。
〈大体お金持ちほど「一生懸命働くこととお金を得られるかどうかの関係はそんなにない、自分がお金持ってるのは与えられた境遇やたまたま運がよかったためだ」って思ってて、そんなにお金ないけど嫌々仕事をやってる人ほど「働かざるもの食うべからず、ニート死ね」って思ってるような気がする。〉
〈無職に対して「金を稼がない奴(税金を納めない奴)は生きてる価値がない」って言うような人は、自分の100倍収入があって100倍税金を納めてる金持ちに「お前は俺の100分の1しか生きる価値がない」って言われてもいいんだろうか。そんなんじゃなくて、みんな生きてるだけでその生命は尊重されるべきだと僕は思う。〉
取材のあと、そのまま外で食事を済ませ、いそいそとタクシーに乗り、家事代行サービスが掃除をした一人暮らしの部屋に帰る道中で、この原稿を書いている。「働かない」生き方より、この生活のほうがよっぽど長続きしそうにない。