生前の関係性次第では例外もある

このように大方の場合、故人を悪く言う人はいないのだが、生前の関係性次第では例外もあるのだ。たとえば、家庭をまったく顧みなかった場合、最期のときが近づいても見舞いに来ないばかりか、亡くなってなお悪く言われるケースもある。

ビハーラ僧の三浦紀夫氏が看取った徳永三郎さん(仮名・70代前半で死去)はサラリーマン時代、仕事をバリバリとこなす一方、大変な酒好きで毎晩のように部下を引き連れて飲み歩いては、夜中過ぎに酔っ払って帰宅していた。当然、家族と会話をする時間もない日々だった。2人の息子の世話を含め、家のことはすべて妻の直子さん(仮名)任せ。そんな日々でも直子さんは忍耐強く家を守り、子どもたちも立派に成長。2人の息子は医学部を出て医者になった。

末期がんに侵された徳永さんが三浦氏の運営するグループホームに来てから、何度連絡しても家族は誰一人として見舞いに来なかった。医者の息子たちは「主治医でもない自分たちにできることはないから」と言っていた。

どう生きてきたかが問われてしまう

徳永さんが亡くなったときでさえ、直子さんは「もう顔も見たくない」と来ることを拒んだという。結局、三浦さんたちがお通夜と葬儀を執り行い、直子さんも出席したそうだが、その間、直子さんの口をついて出るのは「この人にはさんざん苦労をさせられた」という恨み言ばかり。自業自得といえばそうかもしれないが、これでは徳永さんは安心して成仏できそうもない。

まさに、どう生きてきたかが問われてしまうのが最期のときだ。では、死してなお悪く言われることがないようにするには、どうしたらいいのか。

「生前に家族との信頼関係が少しでもあれば、亡くなっても心の絆が切れることはないはず」と小澤氏は言う。たとえ後悔ばかりの人生で、周りに迷惑をかけることが多かった人だったとしても、最期の瞬間、穏やかな別れ方ができる人も多いらしい。それなら救われそうな気がしてくる。

ただし「まったく信頼関係がなかった人のことは、思い出しもしないかもしれませんね」(ホスピス医 小澤竹俊氏)。愛の反対は憎しみではなく無関心、とはよく言われる。忘れ去られてしまうより、憎まれたほうがまだ幸せということか。自分の胸に手を当てて、じっくり考えてみたい。

大津秀一
緩和医療医。大学医学部卒業。2010年より東邦大学医療センター大森病院緩和ケアセンター勤務。著書に『死ぬときに後悔すること25』ほか。
 
三浦紀夫
ビハーラ僧。真宗大谷派僧侶、ビハーラ21事務局長。1965年生まれ。44歳で得度。高齢者施設を運営するビハーラ21常勤僧侶に。終末期の高齢者に寄り添う。
 
小澤竹俊
ホスピス医。慈恵会医科大学医学部医学科卒業。2006年めぐみ在宅クリニック開院。著書に『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』ほか。
 
(撮影=大泉 裕、篠原沙織、澁谷高晴)
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