【田原】卒業して院に進学される。

【永守】単位がギリギリで、就活している暇がなかったのです。留年して翌年に就活するなら、4年で卒業して院に行こうと。院ではネオジム磁石の研究をしていました。

【田原】そして富士通に就職する。

【永守】当時私は川崎に住んでいたので、近所だった富士通に学校推薦で入社しました。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【田原】お父さんは、日本電産にこいと言わなかったのですか。

【永守】言われませんでしたが、富士通は反対していました。会社が大きすぎるからダメだって。

【田原】大きいとなぜダメなんだろう。

【永守】大きすぎると全体像が見えない、将来経営者になりたいなら1000人くらいの会社がいいと言ってましたね。当時、私の同期は700人いて、川崎工場は昼間の人口が3万人と聞きました。その中で、私は磁気ディスクの事業部に配属されて、ひたすらオシロスコープという機器で波形を見る仕事をしていました。たしかに会社や社会の仕組みを知ることは難しかったです。

【田原】2年で富士通を退職する。やはり大企業の仕事は退屈だった?

【永守】つまらないというより、サラリーマンの世界で上にいくのは無理だなと思いました。組織の歯車という表現はサラリーマンを揶揄するときに使われますが、歯車になれる人は優秀なんです。欠けていると歯車になれないですから。私はそこまでたどり着けないなと。

【田原】そこで転職ではなく、アメリカのサフォーク大学に留学されます。お父さんは何か言ってましたか。

【永守】アメリカはいいと。父の世代はアメリカが好きな人がもともと多いですが、父は創業当時、日本の会社で相手にされず、アメリカに営業に行ってチャンスをもらった経験があるそうです。「アメリカにはドリームがある」と好意的でした。

【田原】帰国後、日本電産に入社。父親の会社に入るのは、どうですか。

【永守】父に「いま一番勢いがあるのはここだ。勉強になる」と言われまして。でも、本音はコマが足りなかっただけじゃないかと。入社後、私は買収先の東北の工場で事業再生を担当しました。そのコマとして、身内がちょうどよかったようです。

【田原】わからない。どういうこと?

【永守】当時、日本電産は売り上げ5000億~6000億円の会社でした。一方、私が派遣された先は売り上げ20億~30億円。はっきり言って、そこを立て直すより為替が数円動いたほうが影響は大きい。だから、わざわざ幹部を派遣するほどではありません。かといって、事業再生ができる若手が社内にいるわけでもない。それで私に白羽の矢が立った。成功したらそれでいいし、失敗しても創業者の息子だったからで済みますから。