「教義」に心酔するほど悩みが深まる場合もある

私が、ある教団内で目にした光景である。

ある男性はかなり真面目な人であった。教義の教えにのめりこむあまり、その教えすべてを受け入れていくようになった。

例えば、「私たちの目の前に起きることには、すべて意味がある。神が何かを私たちに伝えようとしているので、それを悟りなさい」という言葉。これをその男性は死守しようとする。

男性が、信号を渡ろうとしたら、青が点滅し始めた。それが2度も続いた。男性は、「神は何をいいたいのだろうか」と考えた。「信号を走ってわたるべきか、それとも止まるべきなのか」そこからさらに思いは発展する。「もしかして、自分自身の信仰の信号が赤に向かって点滅していることなのか。信仰を見つめ直せということか」

この調子で、身の回りに起こるあらゆる出来事が気になるようになった。駅で人とぶつかった。

「何か、意味があるのか。日ごろの信仰に問題があるから、人とぶつかったとのか。神は何が言いたいのだ」

それを教団の上司に聞くも、「祈って悟りなさい」といわれるばかり。ますますわからない、彼はどんどん精神的に不安定になっていった。教えでは、神の意に反した行動をすれば、教えでは事故に遭う、病気になる、地獄にいくとも言われている。彼はある時、心境を吐露した。

「もう、怖くて道も歩けない」

このように、必ずしも教義自体がその人の心を救うとは限らない。かえって、その人の悩みを深くしてしまうことだって、十分にありえるのだ。教えには、救いというプラスの面だけでなく、教えが及ぼすマイナスの影響についての視点も必要なのである。

今回の彼女の件でいえば、「突然、仕事を放棄するとは、社会人として失格だ」という厳しい声が多いが、教義に触れているがゆえに、仕事を放棄せざるを得ない状況に至ったともいえる。実際に、「水着の仕事では、性的対象になるのが嫌だった」と語っているようだが、これも「正しき心の探究」のために、邪(よこしま)な思いは、持つべきではないとする教えからくるものと考えてよいだろう。

ここで大事なのは、与えられた決め事との付き合い方だ。