なぜ自分の爪を切る時、ハサミを使うのか

もう一つの訓練は、自分の爪を切る時に爪切りではなくハサミを使うことです。手術の時には利き手である右手が使えない場合があるので、左手でも右手と同じように1回で正確に切れるように練習しました。手術に役立ちそうなことは何でもやっておきたいので、外科医になってから現在でも爪切りは使ったことがありません。

ただし、若い心臓外科医には、私と同じ訓練をすることは勧めません。私と同じことをしたのでは差は縮まりませんし、ましてや私を越えることはないと考えるからです。スポーツやデスクワークでも、ライバルと同じことをしていては、いつまでもトップは狙えないのではないでしょうか。

ここ数年、雑誌などの企画で、医療以外の分野で活躍するトップランナーと対談する機会が何度かありました。私は、学生時代から、プロレスで活躍したアントニオ猪木さん(参議院議員)の大ファンですが、猪木さんとも対談しました。その時、聞きたかったのは、心臓外科医と一流のプロレスラーとの共通点です。私は、手術中は頭を使って手術をするのではなく五感を生かすようにしています。手術中は予期せぬ緊急事態に陥ることがありますが、周囲のスタッフがパニック状態になったとしても、頭を一つ持ち上げるような感じで全体を俯瞰し、冷静に対処するようにしています。全体を俯瞰すると、もう一人の自分が指示を出し、難なく緊急事態を切り抜けられることがあるのです。猪木さんも、プロレスで真剣勝負をした時に、同じような感覚を味わっていたそうです。ものすごい歓声の中で闘っている自分を、カメラのズームレンズで見るようにもう一人の自分が見ていて、勝つ方法が見えたとおっしゃっていました。

猪木さんも私も、初めからそんなふうに冷静に試合や手術を重ねたわけではありません。猪木さんも最初のうちは一戦一戦無我夢中だったそうですし、私が、手術を俯瞰して見られるようになったのは、執刀医として責任を持って行った手術が5000例を超えたころからです。心臓外科医には、何が何でも負けは許されません。負けは患者さんの死を意味するからです。本当に一瞬の出来事が引き金となって、元気に退院するはずの患者さんの命を失うことがあります。手術中、同じチームのスタッフを鼓舞するために、「いつ何どき、誰の挑戦でも受ける」と猪木さんの名言を繰り返すことがあります。私にとってのゴールは、患者さんが手術後社会復帰を果たし、手術を受けたことを忘れるくらい元気になることです。

一方で、私は単なる手術が上手いだけの「手術バカ」ではいけないと、常々、自分に言い聞かせています。そのために、医療とは関係のない本を読み、新聞にもできる限り目を通すようにしています。私は毎年、数多くの手術を行っていますが、ここ数年来の医療安全の考え方から、まずは患者さんの安全を第一に考えて「手術が最良の治療選択肢」という判断を医療エビデンスから導き出し、さらに安全で確実に、どのような患者さんに対しても平等に実績が検証されている術式を遂行するようにしてきました。