なぜ日本人は禅の言葉に惹きつけられるか
歴史に問題解決のひとつのヒントを求めるのは、有効な手段です。古今東西の歴史を調べると、先が見えない状態で正しい意思決定を行ったり、未曽有の危機に直面しながらそれを乗り越えたりといった例が、いくつも見つかります。そういう先人の足跡を学び、参考にするというのは、きわめて合理的だといえます。司馬遼太郎の小説が多くのリーダーに読まれているのは、きっと彼の作品が読者のそういった要求を、「手軽に」満たしてくれるからでしょう。
テーマが個人の生き方となると、やはり哲学や宗教の分野になります。何百年、何千年も前の哲学者や宗教家の言ったことが、果たして現在も通用するのかと訝しく思う人もいるかもしれませんが、その点は心配無用です。明らかに間違っていたり、普遍性のない作品は、時間とともに必ず淘汰されていきます。
だから、いま残っている古典や言葉は、ほぼすべてが正しいと考えられるので、世界中のどんな哲学や宗教を学んでも、決して無駄にはならないと思うのです。
しかしながら、プラトンやアリストテレスといった西洋哲学は馴染みが薄いし、宗教もイスラム教の聖典『クルアーン』を読んでみようという気にはなりづらいと思います。やはり日本人が入りやすいのは『論語』や『孫子』のような東洋哲学であり、宗教なら仏教でしょう。お坊さんの書く本は当然仏教が下敷きとなっていますから、このあたりも人気が出る理由のひとつでしょう。
それに、仏教の聖典であるお経には、現代人の助けとなる言葉やエピソードが、他のどの宗教よりもたくさん書かれているので、そういう意味でも仏教に親しむのは悪くないと思います。ただし、それは仏教が、キリスト教やイスラム教よりも優れているという意味ではありません。仏教の開祖であるブッダの死後、弟子たちがこぞって、自分たちの解釈でお経を書きまくりました。そのため仏教にはお経という形で、膨大な分量の聖典が存在しているので、必然的に「ピンとくる」言葉の数も多いのです。