93年6月、野村証券の常務を退任し、一吉証券の副社長に就任。95年には社長になる。だが、バブル崩壊で、証券業界は冬の時代。それでも、コスト削減を進めながら、新たな攻めにも出る。営業部隊を「アドバイザー」と呼び、短期売買を抑えるように店頭の株価ボードを廃止し、「助言営業」に軸を移す。反対論もあったが、近づく日本版ビッグバンで必ず対面型の「助言営業」の時代になる、と確信していた。

支店長への権限委譲、ミニ支店の増設、中途採用者やアナリストの増員、株式・投信・債券と商品別に縦割りとなっていた組織の再編なども進めた。社名も、親しみやすい平仮名に変えた。だが、花はなかなか開かない。それでも「道在爾」の信念は変わらない。

2001年秋、ついに道が拓く。前年秋から力を入れた分配型の投信「グローバルソブリン」の預かり残高が、1000億円を突破する。安全で金利が比較的高い先進国の国債を中心に運用し、元利金から毎月、分配金を出す商品設計が、資産形成には打ってつけ、と受けた。

個人の着実な資産形成に照準を当て、リスクの大きい取引や商品は扱わない。他社とは明確に違うビジネスモデルを「ブランド・ブティックハウス」と名付けた。06年に東証の二部から一部へ昇格。その年末、峠は越えたと判断し、野村からきていた後輩に社長の座を渡すが、病に倒れ、1年で復帰した。すると、社内は「グローバルソブリン」の成功で緩み、改革が後退し始めていた。すぐに「原点回帰」を掲げる。

会長になるまでの2年間、新たな後継候補に、財務や経営計画を経験させた。そこで、自社の健全度の判断に欠かせない眼と勘を鍛える。社長になって経営に当たるとき、最も肝心な点だ。野村時代に管理会計を学んだことが、大いに生きた。いくら営業が最も大事だと言っても、それこそが「道在爾」だと思う。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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