だが、ことはそう簡単に進まなかった。いざ決定の段階に進むと、クラブの中から、さまざまな不安の声が上がった。少年はまだ幼く、しかも外国籍なので登録に制限がある。

加えて、成長ホルモンを注射する治療が必要という問題もあり、両親もスペインに移住するのであれば両親に仕事を紹介する必要もあった。そこまでする必要があるのか? クラブの上層部では、そんな疑問の声が一斉に上がった。

そうこうしているうちに最終契約に至らないまま10月と11月が過ぎてしまった。ついにメッシ側の代理人はクラブの上層部に圧力をかけ、もし真っ当な契約を提示しないのであればレアル・マドリードかミランに行ってやると言い放った。12月4日、ミンゲーリャはレシャックに電話した。2人はバルセロナのモンジュイックにあるポンペイ・レアル・テニス・ソサエティのレストランで顔を合わせた。そこにはオラシオ・ガッジオーリも同席していた。

ここで、最終合意について話し合われた。「あちらは最終条件を文面にしてくれ、さもなくば交渉は終わりだ、と強く迫ってきた」。レシャックが語る。

「あの少年だけは絶対に逃すわけにはいかないと私はわかっていた。そこで私は近くにあった紙ナプキンに書いた。『私、チャーリー・レシャックはオラシオ・ガッジオーリとジョゼップ・マリア・ミンゲーリャの同席する場において、同意した条件の下でリオネル・メッシと選手契約を結ぶことをこの場に誓う』と」

話はここで終わらなかった。その後レシャックはメッシが抱える問題すべてを解決し、クラブ全体を説得するために大変な努力をすることになった。レオは特別に素晴らしい才能に恵まれた少年だという報告書も書いた。最終的に2001年1月8日に最終合意が成立し、ホルヘ・メッシに対して2通の文書が送付された。1通はチャーリーによるもので、バルセロナにおけるスポーツ面の合意について書かれており、もう1通はクラブのディレクターであるフアン・ラクエバからで、クラブによる経済的な合意についてうたわれていた。

その中には住居の家賃に関する詳細、学校および選手の父親に給料として支払われる700万ペセタ(約4万ユーロ)、フットボール・ベースにおける職の提供などが含まれていた。これだけの条件が揃えば、メッシ一家に荷物をまとめさせるのには十分だった。

2001年2月15日、真夏のアルゼンチンから真冬のバルセロナに向けて、メッシ一家は飛行機に乗り込んだ。メッシは、ロサリオからブエノスアイレスへのフライトで一瞬も泣きやむことがなかった。彼は、人生がまったく変わってしまったことを悟っていた。

※本連載は書籍『Who is the Best? メッシ、ロナウド、ネイマール。最高は誰だ?』(ルーカ・カイオーリ 著)からの抜粋です。

(写真=フォート・キシモト)
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