日本では、どの業界でも、会社の規模でランク付けされてきた。それが、格付けでは、規模で10倍にもなる大手とも、遜色のない評価が得られる。社会へ「経営の安全性は、規模ではない」と発信できた。この間、98年4月に総合企画室長へ転じた。資産運用の元締めから経営戦略の責任者へ。47歳。危機克服への戦いのど真ん中へと、動く。
嵐は、簡単に収まらない。2001年にかけて、東邦、第100、大正、千代田、協栄、東京と、生保の破綻が止まらない。バブルに乗って、国内外の株式や不動産へ「身の丈」を超えた投資を重ね、逆風に変わるとなぎ倒される。連想的な風評への懸念は、なかなか消えない。
でも、「昭和40年不況」の後の安値で買い、長く持ち続けてきた株式の含み益が、大きなコメびつとなる。併せて、積極開示と格付けの取得が、風評を押しのけてくれた。どちらも、別に独自に生み出した手法ではない。世の中にあるいい点を、素直に取り入れただけだ。
「以人之長補其短」(人の長を以て其の短を補う)――他人の長所を活かし、自らの短所を補えばいいとの意味で、紀元前1世紀の中国・前漢で、劉向が儒家らの教えを撰集した『説苑』にある言葉だ。まさに、米山流の姿勢と重なる。
金融危機を乗り越えるとき、もう1つ学んだのが、歴史だ。都銀や生保の破綻は、どちらも戦後初めて。想像もしなかった出来事で、対応の教科書もない。ただ、証券会社の破綻は「昭和40年不況」であった。そこで、部下に昭和40年(1965年)から30年余りの自社データを、そろえてもらう。資産規模や構成比などの推移を眺め、先人や自分たちがどう行動してきたのか、分析した。業界全体とも比べてみた。
すると、富国はすべてに於いて、よその生保とはちょっと違うことをやってきた、ということがわかる。長い間、横並びの「規制産業」だったから、違うことをしても、労多くして実りは少ない。でも、中長期的にみれば、資産の構成など、ちょっと違うことをやってきたことが、数字に表れる。例えば、83年に始めた医療保険などの「第三分野」。いち早く手がけたことで、データが蓄積され、その後の商品やサービスの開発につながった。そして、いま規制がはずれていく時代を迎え、「競争は激化しても、違いに挑んできた蓄積が活きる」と確信する。