私は長年にわたり海外援助の仕事をしていますが、寄付や義援金を被災国や貧困国に送るときは、必ず後でそのお金がどう使われたかを見にいっています。
人を信じた結果失ったものが個人のお金なら、それは自分の愚かさを悔やめばいいだけだからまだいいでしょう。でも、他人から預かったお金はそういうわけにはいきません。だから、相手を信用しないという前提で進めるべきなのです。
ところが、日本で私がこういうと、「善意のお金を盗むなんて、そんなひどいことをするわけがない」と文句をいってくる人がたまにいます。そういう人は人間の見方が浅いのか、苦労が足りないか、どちらかですね。
聖書にも「正しい者はいない。ひとりもいない」とあるように、キリスト教は明白に性悪説の立場をとっています。
信仰の篤い人だって、時には悪に惹かれ、罪を犯すこともあるのです。昔カトリックのミサがラテン語で行われていたときは、みな「メア・クルパ(おお、我が罪よ)」と、途中で3度自分の胸を叩きながら唱えたものでした。そうやって神様の前で、自分のなかに悪しき心があることを認めるのです。でも、それが失礼だなんて誰も思っていません。なぜなら、それが人間なのですから。
それに最初から人を信じていなければ、騙されても裏切られても、穏やかな気持ちでいることができます。逆に、もし騙されたり裏切られたりしなかったときは、その幸運を素直に喜ぶことができる。上司がちゃんと自分のことをわかってくれていた。部下がいったとおりのことをしてくれた。それを当然と思わず、なんてラッキーなのだと思えばいいのです。
1931年、東京生まれ。聖心女子大学文学部英文科卒業。79年、ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章。日本藝術院賞・恩賜賞受賞。著作に『神の汚れた手』『神さま、それをお望みですか』『天上の青』『哀歌』など。著書『老いの才覚』は大ベストセラー。数多くの著作活動の傍ら、世界的視野で精力的な社会活動を続ける。