義務を果たしたとき、自由が手に入る

作家 曽野綾子さん

「少しも幸せに見えません」

数年前にNGOの仕事で、カトリックの神父とともにガンジス川の中流域にあるインドの聖地バラナシを訪れたときのことです。対岸の焼き場から立ち昇る煙が見える宿のテラスで、ひとりの日本人女性と出会いました。

話をしてみると非常にしっかりしています。私は最初、まだ親のすねをかじっている学生なのかと思ったのですが、そうではありませんでした。長らく勤めた会社を少し前に辞めて、その退職金で念願のインドに来たのだそうです。お金が続く限りここにいるつもりだとも言っていました。

自分の稼いだお金で自分の好きなところを自由に旅行できる彼女はなんと幸せなのだろう。そう思った私は傍らの神父にも彼女の言葉を通訳したところ、返ってきたのが冒頭の言葉だったのです。

続いて神父はこうおっしゃいました。

「彼女は人間としての義務を果たしていないから自由ではないし、幸せでもない」

そう、これこそがキリスト教の考え方なのです。私たちは国家、会社、地域、家族の一員として、あるいは自分の信じる哲学や信仰に対し、さまざまな義務を負って生きています。そして、義務を果たしたとき、ようやくその分だけ自由が手に入るのです。

ところが日本人の多くは、この自由の意味がよくわかっていません。義務に縛られるのは不自由で、やりたいことをやるのが自由だと思っている。

そうではないのです。義務の束縛がない状態というのは錨のない船と一緒。ただ流されるだけで、行きたいところにたどりつける保証はないのです。社会人なら働くのは義務ですから、やりたいとかやりたくないとかいう前に、まずは目の前の仕事に全力を尽くすべきです。同様に、社会に貢献したいと勉強を疎かにしてボランティア活動に精を出す学生も、本末転倒だと私は思っています。