苦しくなかった拘置所での“独房生活”

作家、元外務省主任分析官 
佐藤 優氏

信仰は、決断によってつかみ取れるものではない。これも神学教師たちから教わったことだ。人間と神は質的に異なるので、人間の意思によって信仰を持つという発想じたいが傲慢だ。

人間と質的に異なる全能の神は、人間を救うためにこの世に神のひとり子であるイエス・キリストを派遣した。イエス・キリストとは、イエスが名でキリストが姓ということではない。イエスは、当時のパレスチナによくあった男性名だ。これに対して、キリストとは「油を注がれた者」という意味だ。「油を注がれた者」とは、救済主を意味する。

イエス・キリストは真の神であり、真の人だ。罪を持たないという点を除いては、食事をし、酒も飲み、排泄し、睡眠を取る完全な人間である。キリスト教とは、「イエスという男が、罪を持った人間の救済主キリストである」と信じる宗教なのだ。この信仰は、人間の努力によってではなく、神の側からの圧倒的な力で人間に迫ってくる。その意味でキリスト教は、仏教で言うならば浄土宗や浄土真宗のような他力本願の宗教なのである。

信仰はつかみ取るものではなく、うつる(感染する)ものだ。イエスが官憲に逮捕されたとき、弟子たちは怖くなって全員逃げ出した。しかし、十字架にかけられて処刑されたイエスが復活した後は、弟子たちは殉教の死を恐れない強固な信仰を持つようになった。イエスは「受けるよりは与える方が幸いである」という生き方を徹底した。そして、最後に他の人間のために命まで与えたのである。