イエスが生きた時代は、哲学でいう素朴実在論が人間の思考を支配していた。夢で見ることが、昼間に現実で起きたことと同じ重みを持つ。処刑されたイエスと夢の中で出会い、話をしても、生きているイエスと会ったのと同じように受け止められる。それだから復活を超自然現象ととらえる必要はない。イエスの生き方が、弟子たちにうつったのである。同志社の神学教師たちにも、そして私にも、イエスや弟子たちの「受けるよりは与える方が幸いである」という生き方がうつっていたのである。

こういう信仰は、ソ連崩壊の激動期に、外交官として87年から95年に私がモスクワに勤務したときに役に立った。外交においては、正確な秘密情報を入手することが死活的に重要だ。また、日本政府にとって有利な状況をつくり出すためにロシアの要人に働きかけなくてはならない。ロシアで人間観察を続けているうちに、優れた政治エリートは、「受けるよりは与える方が幸いである」という原則で行動していることに気付いた。日本の国会議員や官僚についても同様だ。

95年に帰国し、インテリジェンス業務に従事するようになったが、どの国でも、優れたインテリジェンス・オフィサーは、「受けるよりは与える方が幸いである」に従って行動していた。新約聖書「マタイによる福音書」4章19節によれば、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言って弟子たちを獲得した。キリスト教の強さは、信仰で結びついた本当の仲間をつくる力があることだ。キリスト教徒でない人、宗教を信じない人にもイエスが説いた人心掌握術は役に立つ。要は打算でなく、捨て身で他人のために尽くす人が、究極的なところで信頼を得るのである。限られた人生の中で、自分が他者から「受けること」でなく、他者に自分が何かを「与える」ことができないかと考えることにより、この世の中が異なって見えるようになることを、私は実感している。