当日だけではなく、その後は誰に会っても「あの日はどうでしたか」と共通体験を語り合うことで、心の垣根が取り除かれていくような感覚になる。そうであれば、NHKの番組が心配したような「無縁社会」の問題は、気にするほどのことではないのである。

ただ、そうはいっても、依然として多くの人が無縁という言葉に心細さを感じているのは事実だろう。その背景にあるのは、雇用環境の変化である。

地方からやってきて都会に移り住んだ人にはそもそも地縁、血縁がない。その代わりの縁、つまり社縁を提供してきたのが企業である。日常的な人間関係のほか、葬儀の手伝いまで会社の同僚がかって出たりしていたのである。

ところが、そうした会社と個人との関係にも20年ほど前から変化が生じている。企業の中にアメリカ風の成果主義が浸透し、いまの会社はあくまでも仕事の場であり、儀礼や生活の場ではなくなった。最近では葬儀の受付に故人や喪主の会社関係者が座るという例は、ほとんど見られなくなった。

だから従業員は、所属先(会社)に対してかつてのような安心感を持つことができない。それどころか、いまは高い収益力を保つため新卒採用をぎりぎりまで絞る企業が少なくない。所属先を持つこと自体が難しい時代なのだ。

その影響で、いまの学生は思わぬ苦労を強いられている。企業に対し自分をアピールするため、就職活動というレースに血道を上げなければならないのだ。

これを「就活」と呼び、同様に結婚相手を探す結婚活動を「婚活」と呼ぶ。いずれにしても縁を結ぶために必死であるのは同情できるが、日本社会の成り立ちを考えると原理に反した努力だといわなければならない。

なぜなら、わが国では就職にしても結婚にしても、当事者はそもそも「待ち」の姿勢をとっていた。誰か間に立つ人がいて、就職先や結婚相手を紹介してくれたのだ。