終活は、何から手をつけたらいいのか。今年1月に原発不明ガンで亡くなった経済アナリストの森永卓郎さん(享年67)の著書『やりたいことは全部やりなさい 最後に後悔しない25のヒント』(SBクリエイティブ)から、父親の介護から得た教訓を紹介する――。(第4回)
葬式
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余命宣告を受けて身辺整理をした

常識→死は遠い未来のことであり、元気なうちは考える必要がない
真実→死を意識することで生の価値が高まる

私は、がんで余命宣告を受けてからさまざまな身辺整理をしました。膨大なモノや本、蒐集しゅうしゅう癖により積み上がった玩具などのお宝の山、そして資産。こうした有形物以外にも、仕事や人間関係、さらに「整理」とは少し違うかもしれませんが、家族に対する終活も、いつ死んでもおかしくないとなれば欠かせません。

私は、死ぬこと自体は怖くありません。特定の宗教を信仰しているわけでもなく、天国も地獄も、死後の世界も来世もないと思っています。死んだら肉体と一緒に「私」という存在も、魂(もしそんなものがあるのなら)もろとも、きれいさっぱりなくなるだけ。だから手厚く葬ってもらう必要もないし、いっそ遺骨は廃棄処分してもらってもいいと思っているくらいです。

しかし、これは死を軽んじていることとイコールではありません。むしろ「死」という、「生誕」に並ぶ人生最大のイベントを重んじ、強く意識してこそ「生」をも重んじ、強く意識することになるのです。

父の相続は困難を極めた

影が濃ければ光が強いがごとく、「死ぬこと」を意識するほどに「生きる」ことが際立ってきます。「いかに死ぬか」ではなく、「生きている間に、いかに生きるか、生き抜くか」が、最も重要な問題意識として浮かび上がってくるというわけです。

若いみなさんにとって、死はどこか縁遠いものかもしれませんが、できることなら、生きているうちから死を意識して欲しいと思います。すべての生物は生まれてから死に向かっています。ただし、これはあくまでも不可逆的な時間軸の話。人間の意識だけは時間軸から自由なので、逆に死のほうから生を眺めることもできるのです。

自分の人生を光り輝かせることができるのは、自分自身しかいません。そして人生の輝きとは、死から生を眺めてみたときに、最も高まるものである。これは今、死を目前にした私が、非常に強く感じている真理のようなものです。

余命宣告を受けた私が、家族に迷惑をかけないよう、まず真っ先に身辺整理を進めたのには、理由があります。実は、以前私自身が、相続する立場となったときに大変な思いをしたからです。父が亡くなった後のもろもろの手続きは困難を極め、それと同じ思いを私の家族にはさせたくないと考えてのことでした。