太陽の塔をダイナマイトで爆破して撤去
(前編から続く)
1970年大阪万博が計画された当初、すべてのパビリオンは万博閉幕後6カ月以内に出展者が解体するという条件で建設された。これは決して特殊な条件ではなく、世界の博覧会における標準的な慣行だった。そのため、大半の構造物は長期的な耐久性を考慮して設計されていなかった。
1970年9月13日に万博が終了すると、解体作業が開始された。数日のうちに、北欧パビリオンが撤去され、続いてUFO(日立グループパビリオン)、光の木(スイスパビリオン)、七重の塔(古河パビリオン)、恐竜(オーストラリアパビリオン)など多くの象徴的な構造物が解体された。
例外的に万博開催前から保存が決まっていた構造物もあった。日本館、万博ホール、万博美術館(旧国立国際美術館)、日本庭園、日本民芸館、そして日本鉄鋼連盟が建設した鉄鋼館などだ。
一方、太陽の塔は当初、保存される構造物のリストには含まれていなかった。壊すわけでも保存するわけでもない「保留状態」にあった。
太陽の塔を取り巻く環境は1972年7月に一変する。日本万国博覧会記念協会(日本万国博覧会協会から再編された組織)が記念公園の第一段階開発計画に太陽の塔を含め、1976年度(昭和51年度)に解体する予定を立てたのだ。維持費が高すぎるという理由だったが、太陽の塔をダイナマイトで爆破して撤去するという具体策さえ計画されていた。
事態を一変させた高校生による手紙
1974年、大阪市の高校生だった藤井秀雄さんは、新聞で太陽の塔の撤去計画を知り、日本万国博覧会協会評議委員会に一通の手紙を送った。「夢と希望を与えてくれた太陽の塔を壊さないでほしい」。この手紙を契機に、保存を求める署名活動が広がり、翌75年に永久保存が決定する。
この高校生の手紙がどれほど大きな影響力を持っていたかは、永久保存が決定した際に新聞記者が藤井さんの家をインタビューに訪れた事実からも窺える。一人の若者の熱意が社会を動かした象徴的な事例となった。
高度経済成長期の象徴的な建造物である太陽の塔の保存を訴えたのが一人の高校生だったことは、極めて示唆的である。当時を知る世代にとって、太陽の塔は単なるモニュメント以上の存在だったことを物語る。
みなさんの周りにもいまだに1970年の万博を熱く語る人はいるはずだ。それは万博が単なる博覧会ではなく、日本の「未来」そのものだったからなのだ。