岡本太郎の意外な愛着

もちろん、藤井さんの手紙だけで存続が決まったわけではない。塔の保存において最も影響力のあったのは何よりも岡本太郎の熱意だ。1974年12月、第二回万博施設処理委員会会議において、岡本は自身の作品の存続を心から訴えた。

この会議の議事録には、岡本自身の作品に対する発言が残っている。

「制作中は永遠に残ることなど一瞬も考えていなかったが、いったん完成すると私から離れてみんなのものになった」
「外国人も自国のパビリオンを最初に言及した後、必ず太陽の塔について話した。外国人にも印象を残した」

過去の作品にこだわらない岡本にしては珍しい内容であり、それだけ太陽の塔へのこだわりが垣間見える。

岡本個人の擁護活動に加えて、塔を救うための草の根運動も起こった。京都府宇治市や東京で解体反対の署名活動が組織された。これらの市民による支援表明は、岡本が示唆したように、塔が実際に「みんなのもの」になった。

多くの日本国民が保存したいと願う愛される文化的アイコンになったことを証明した。

岡本の熱心な訴えと市民運動を受け、1975年3月、太陽の塔を保存する決定が正式に確定した。

万博記念公園
万博記念公園(写真=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

太陽の塔のデザインの意味

太陽の塔は異様だ。生命の樹が下から上まで伸びる。手はあるが足はないものの、根を張って大地にしっかり立っている。万博という国民的行事によって、大阪の地にとどまらず、世界の人々の記憶にも広く深く印象付けられた建物は、保存されたことで時空を超える存在となった。

太陽の塔は、その誕生の瞬間から物議を醸した作品だった。建築家・丹下健三が設計した未来的な大屋根を、岡本太郎が「ボカン!と打ち破りたい」と言い出したのが誕生のきっかけだった。その結果、大屋根を突き抜ける高さ70メートルの巨大な塔が生まれた。

鉄骨・鉄筋コンクリート造で、表面は白色板金で覆われている。岡本は「太陽の塔は建築ではなく、彫刻だ」と語っていた。塔には正面の「黒い太陽」、背面の「太陽の裏」、頂上の「黄金の顔」の三つの顔があり、それぞれ現在、過去、未来を象徴していた。

丹下健三のデザインした大屋根を貫く形で、原始的な造形の太陽の塔がそびえるのは、進歩に対するアンチテーゼであることは広く知られる。

岡本が考えたのは対極の思想だった。万博のテーマ「人類の進歩と調和」を踏まえ、進歩と伝統、近代と原始、理性と本能……。相反するものの衝突から生まれる新たな価値の創造こそが岡本の狙いだった。