明確なビジネスプランはなかった

最大の転機となった起業も、実は消極的な選択だった。松下家では、父母、兄弟が相次いで結核で亡くなっており、本人も病弱だった。血痰が出るようになり「死を覚悟した」というが、奇跡的に回復する。ただ、電力会社では学歴もない中、大きな出世は望めない。身体が弱いので、勤務もどこまで継続できるかもわからない。

そこで選んだのが起業という道だった。しかも、最初はお汁粉屋を始めようとしていた。単にお汁粉が好きだったからという理由だったが、妻に反対されたことで、電気器具の会社を立ち上げた。妻の反対がなければ日本を代表する電機メーカーの創業者ではなく、お汁粉屋の主人になっていたかもしれない。

当時、幸之助には明確なビジネスプランがあったわけではない。むしろ、病気による離職を余儀なくされ、生活のために始めた事業だった。しかし、結果としてこの「不運」が、幸之助を起業へと導き、後の大きな成功の礎となったのである。

幸之助の病弱さは、皮肉にも経営革新の原動力となった。

創業経営者が直面する最大の課題の一つが、いかに権限を委譲するかだ。バトンタッチの時機を逃し、経営が行き詰まるケースは少なくない。特に、カリスマ的な創業者の場合、「自分でやった方が早い」「任せると失敗するかもしれない」という思いから、権限委譲が進まないことも多い。

日本で初めて事業部制を導入

幸之助の場合、体が弱いがゆえに、早くから権限委譲を進めざるを得なかった。創業期から妻に頼ることも多く、事業規模の拡大とともに、この傾向は強まっていく。そこで気づいたのが、「人は任されると責任を感じ、工夫する」という真理だった。

パナソニックの工場
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この経験をもとに、1933年、幸之助は日本で初めて事業部制を導入する。各事業部に権限と責任を委譲し、独立採算制を敷く仕組みだ。実は、すでに1927年には電熱部新設の際に責任者に一任する方式を採用しており、これを全社的に展開した形だった。

この事業部制は、今では多くの大企業で採用される一般的な組織形態となっている。各事業部が独自の戦略を立て、迅速な意思決定を行うことで、市場変化に柔軟に対応できる。幸之助は、自身の病弱という「弱み」を、むしろ革新的な経営システムを生み出す「強み」に変換したのである。