※本稿は、霜田明寛『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。
「私は決してメジャー志向ではない」
本章では、これまであまり語られてこなかった“藤島ジュリー景子がしてきた仕事”の功績を振り返ることにより、彼女が残そうとしていたものを考えていきたい。
藤島ジュリー景子は、嵐や関ジャニ∞といったデビュー直後の勢いに乗ってすぐにブレイクとはいかなかったグループを、テレビを中心にスターにさせていった実績がある。ジャニー喜多川がうまく売りきることのできなかったグループを、広く世の中に浸透させていったといってもいい。
その手腕は本書の分類で言えば“芸能界”に寄っており、もう少しくだけた言い方をすればメジャー志向の人物にも思える。「舞台のジャニー、テレビのジュリー」のような見方をされることも多かった。
だが藤島ジュリー景子本人は「私は決してメジャー志向ではない(※1)」という。「これに関しては両親に感謝(※2)」と語るほど、昔から本場で舞台を観てきたといい、舞台の帝王学の跡も垣間見える。
ジュリーはジャニー喜多川のように自ら作・演出をしていたわけではなく、マネージャー・プロデューサーとしての立ち位置を貫いてきた。そんなジュリーが2001年に立ち上げた「ジェイ・ストーム(J Storm)」という会社がある。
ジャニーズなのに「インディーズです」?
「自分で小さな会社を立ち上げ、そこに慕ってくれるグループが何組か集まり、メリー・ジャニーとは全く関わることなく、長年仕事をしておりました」と会見の手紙で語られた会社とは、このジェイ・ストームのことだろう。
最初はその名の通り嵐のレーベルとして世に出たが、程なくしてJ StormMovieとして映画製作にも関わるようになる。「東京グローブ座という劇場を持ち、製作も配給も手掛ける。(中略)ジェイ・ストームが行なっていることは規模の小さい映画会社」と持ち上げられると、ジュリーは「全然違いますよ(笑)。インディーズです(※3)」とそのスタンスを語っていた。
近年は出資作が目立っていたが、初期のJ StormMovieはジュリーの言う通りのインディーズ、自主製作の作品が多くあった。それらはジャニーズ主演であるということ以外にも、作品の作り方、公開規模やグッズに至るまで、凡百の映画とは一線を画するものだった。
2002年に公開されたJ StormMovieの自主製作映画第1弾『ピカ☆ンチLIFEISHARDだけどHAPPY』は、まだブレイクする前の嵐5人の主演作だ。東京都品川区の八潮団地で育った井ノ原快彦の経験が原案で、映画撮影に密着して作られた写真集『嵐04150515―嵐のピカ☆ンチな日々』は岡本健一がカメラマンを務めるなど、所属アーティストたちの才能を集結させて作られている。