先に“芸事”があったからここまでブレイクした

これも本書で前述した通り、嵐のメンバーも自分たちのブレイクのきっかけを『花より男子』だと認識しているが、2007年はまさにブレイクの年で『黄色い涙』はその真っ只中での公開だった。だが、当時は全国4館のみでしか公開されていなかった。『黄色い涙』もJ StormMovieの作品だが、ジュリーの言うところの“インディーズ”ならではの公開規模だ。

霜田明寛『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)
霜田明寛『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)

撮影は2006年の6月で、企画自体はその前から動いていたことを考えると、これは、嵐のブレイクの、いい意味での歪みのような現象だったのではないだろうか。インディーズ精神で作られた映画が、嵐がブレイクした年に公開された。ブレイクした後の嵐では、この企画は成立しなかったことだろう。

“芸事”で研鑽を積んでいた彼らの実力と魅力に、徐々に気づいていく人を増やしていった2000年代の前半。そして、テレビドラマをきっかけに“芸能界”での活動も増え、その実力と魅力が広く世に知られることとなった。

準備をしていた者たちに、突如訪れた偶然。それが、嵐のブレイクに繋がっていったのだ。だが、それは彼らのためてきた実力を考えれば必然と言っていいものだったのかもしれない。

彼らの中にはインディーズ精神が潜んでいた

公開から数年がたち、完全に嵐が国民的アイドルになったと言っていいタイミングで、『黄色い涙』が恵比寿ガーデンプレイスで再上映されたことがある。その日のガーデンプレイスは「本人が来るのか?」と勘違いするほどに、多くの嵐ファンで埋め尽くされていた。それは“インディーズ”として作られたものがメジャーに観られている風景だった。

藤島ジュリー景子はジャニーズというメジャーに見えるものを通して、嵐は自らが大きくなることによって、そのインディーズ精神を世に侵食させていたと言ってもいいだろう。子どもから大人まで多くの人を楽しませるメジャーの中に潜んでいたインディーズ精神。それは、可視化されていない範囲でも、多くの人の感性を変えていったはずである。

※1:「+act」2009 VOL.21
※2・3:「キネマ旬報」2007年4月下旬号
※4・5:「+act」2009 VOL.21
※6:「キネマ旬報」2007年4月下旬号
※7:「+act」2009 VOL.21

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