島では「かくれんぼ」でどこの家に入っても怒られなかった

夏になれば、遊泳禁止だった海で、大人たちに怒られないよう隠れて遊んだ。波が高く海流も速いため危険とされていたが、高波を利用した岸壁の上がり方や、「バタバタするから沈んでいくんじや。波に任せろ」と泳ぎ方を先輩から教えてもらったという。かくれんぼはどこの家に入っても怒られなかった。子ども同士だけでなく大人との関係も密接で、「みんなが家族のようだった」と振り返る。

お風呂は共同浴場だったが、戸別に風呂が備わる、三菱の幹部職員用社宅・3号棟に同級生が住んでいたため、時折入らせてもらうこともあった。当時、共同浴場は鉱員用を除いて3カ所あり、中でも木下さんのお気に入りは、8号棟に備わる「岩風呂」だ。

「ほか2カ所は地下にあったのですが、岩風呂だけはちょっとだけ高台にあってね。海が見渡せるとか眺めがいいわけではないけれど、『外が見える』ことがうれしくて。露天風呂のような感覚で入っていました」

島を去る日、岸壁に「端島忘れるな」と書かれた横断幕を見た

1966(昭和41)年に一家は長崎市内へ転居。端島と違い、家賃や光熱費など生活に関わるすべてにお金が必要である環境に、慣れるまでに時間がかかったという。「一番驚いたのは、お金を払って銭湯に入ること。端島の風呂と同じように、浴槽からジャバジャバと湯を汲み出して体を洗っていたら怒られたしね」と木下さんは笑う。

また、端島ではいつも隣り合わせだった高波とも無縁だったことは、木下さんにとって大きなことだった。「時化しけにおびえる必要がないというのは、不思議な気持ちだった」。

長崎市内での暮らしは、「どこへでも地続きで行けるから魅力的だった」と話す一方で、「島での生活は本当に楽しかった」と改めて振り返る。とりわけ「島を離れる日」は今でも忘れられない。

「普通は桟橋で友達が見送ってくれるんだけど、その日は誰もいなくて。でも、船が島を離れると、岸壁に『端島忘れるな』と書かれた横断幕を掲げた、クラスメイト全員の姿が見えたんです。もっと友達と一緒にいたかったから、出ていきたくなかったのが当時の僕の本音ですよね」