NHK大河では描かれない道長の病

ところで、この時代には両統迭立という慣習が続けられていた。村上天皇(62代)の皇子であった2人の天皇、冷泉天皇(63代)の系統と円融天皇(64代)の系統が、交互に即位することになっていて、冷泉の子である花山(65代)の次は、円融の子の一条(66代)が即位した。

これにしたがえば、一条天皇の皇子は敦康であろうと敦成であろうと、即位が冷泉系の天皇の次になる。具体的には、このとき花山天皇の弟の居貞親王(のちの三条天皇)が東宮だったので、敦康か敦成かという選択は、居貞が即位する際にだれを東宮にするか、という問題だった。

そのことも道長が敦成を東宮にするのを急いだ理由と考えられる。すでに40代半ばの道長は、「光る君へ」では描写されないが、じつは病気がちで、ある年齢からは飲水病(現代の糖尿病)の持病もあった。仮に敦康親王が東宮になれば、その次は冷泉系の順番だから、敦成に出番があっても次の次、すなわち一条天皇の4代先になる。

自分が幼い天皇の外祖父になり、摂政として君臨するためには、とてもではないが、そこまで待てない。敦康を排除できたとしても、次に即位するのは東宮の居貞親王で、敦成の即位はその次になる。ドラマで道長が頼通に語ったように「一刻も早くご即位いただく」ためには、一条天皇にも、その次の天皇にも、早く退位してもらうしかない。

京都御所
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第一皇子が東宮にならないのは例外中の例外

実際、道長は寛弘8年(1011)5月26日、一条天皇の体調不良を機に譲位を発議。6月2日に即位を要請された居貞親王は、6月13日に即位し、道長の思惑どおりに敦成が東宮になった。

だが、一条天皇は敦康親王の即位を望んでいた。事実、平安時代になってから、皇后および中宮が産んだ第一皇子で東宮にならなかった例は一つもなかった(その後も、4歳で早世した白河天皇の皇子の1例があるのみ)。しかも、『栄華物語』によれば敦康は、漢籍に通じるなどすぐれた教養人だった両親から知性を受け継ぎ、才気煥発だったという。

だから、一条天皇は譲位を決意してからも、敦康を東宮にできないかと訴えたが、「光る君へ」で渡辺大知が演じる藤原行成は、「道長の意を損ねたら、敦康親王も不幸になる」と言って、外戚の力を優先すべきことを説いた。

一条天皇以上に納得しなかったのは、中宮彰子だった。敦康親王の親代わりになってすでに8年が経過しており、敦成と敦良の両親王の母でありながら、敦康を東宮にすべきだと主張した。『栄花物語』によれば、父の道長に、敦康を東宮にしてほしいと何度も申し入れたという。それが却下されたことが、その後の親子の確執にもつながっている。

彰子は、敦成が東宮にならなくていいと思ったわけではない。一条天皇の在位は25年におよんだが、当時の天皇の在位は数年であることが多く、敦康が先に天皇になっても、敦成もまた即位する可能性は十分にあった。だが、道長にそれを待つ余裕はなかった。