「まったく無用の存在」になった敦康親王

実際、寛弘5年(1008)9月11日に、道長の長女である彰子が敦成親王を出産して以降は、亡き皇后定子(高畑充希)が産んだ第一皇子の敦康は、道長にとって「まったく無用の存在、むしろ邪魔な存在となった」(倉本一宏『藤原道長と紫式部』講談社現代新書)。

道長の長兄、道隆(井浦新)の長女である定子が敦康を産んだのは長保元年(999)11月7日。ちょうど彰子が数え12歳で入内し、女御とする宣旨(天皇の命)がくだったその日のことだった。

【図表】藤原家家系図

ところが、定子は1年後の長保2年(1000)12月15日、第二皇女を出産した際、後産が下りずに命を落としてしまった。そのころ、定子の兄である伊周(三浦翔平)ら敦康の外戚は、事件を起こして流罪になった後、以前の地位には戻っておらず、敦康には事実上、後見がいなかった。

むろん、道長は彰子に皇子を産ませたいが、いかんせん若すぎて、まだ可能性がない。そこで道長がみずから敦康を後見することとし、ある時期から彰子に育てさせた。

敦康が彰子のもとにいれば、一条天皇は敦康に会いに彰子の後宮を訪れ、彰子が皇子を産む可能性が増す。加えて、彰子が敦康の養母、自分が養祖父になっておけば、結果的に彰子が皇子を産まず敦康が即位することになっても、権力を敦康の外戚に渡さず、自分たちが維持できる。そんなねらいもあったと考えられている。

そんなきれいごとではない

だが、もう敦成が産まれている。道長にとって、権力基盤を強固にし、自身の家を繁栄させるためには、敦成を東宮にするしかない。

脚本を書いた大石静氏は、6月に朝日新聞紙上で、道長について時代考証を担当する倉本一宏氏から、「人事は意外とリベラルだった」と聞いたので、「人間的に優れた存在として描いた」と語っていた。「年を重ねて多少は強引になりますし、敵に回せば怖い存在かもしれませんが、闇落ちはしません」と断言していた。

このためドラマの道長は、敦成を推す理由について頼通に、あくまでも「帝のお心をいたずらに揺さぶるような輩が出てくると、朝廷は混乱を来たす」からであって、「家の繁栄のため、ではないぞ」と念を押していた。だが、むろん、そんなきれいごとではない。伊周のように公卿たちに信頼されていない外戚が後見すると朝廷が混乱を来たす、というのは、あながちウソとも言い切れないが。

いずれにせよ、敦成が産まれてからは、道長は敦康のことをほとんど顧みなくなった。寛弘6年(1009)11月25日、彰子が第三皇子の敦良親王を出産してからは、なおさらであった。翌寛弘7年(1010)7月17日、敦康は道長が加冠(成人の装束をまとわせること)を担当して元服したが、すでに道長の心は敦康にはなかった。