文化人として活躍する時間もなかった
結局、敦康親王には、一条天皇のせめてもの願いもあって、皇位を継承させないかわりに手厚い経済的援助を施すことが決められた。その後は政争から離れて、作文会や歌合、法華八講などをもよおし、風雅の道に生きた。一条天皇と定子の知性を受け継いでいたから、命さえ長らえれば、文化人としてなんらかの業績を残すことができたかもしれない。
長和2年(1013)末には、村上天皇の第七皇子、具平親王の次女と結婚。一女をもうけたが、それから5年後の寛仁2年(1018)12月17日、なんらかの病気をにわかに発症。出家したのちに没した。享年はわずかに数え20歳。その2年余り前には、異母弟の敦成親王が即位していた(後一条天皇)。
伊周に、道長に、藤原氏の政争に振り回され続けた短い一生だった。
ちなみに、一人娘の嫄子女王は、藤原頼通の養女となったうえで、彰子が産んだ一条天皇の第三皇子、敦良親王が即位後(後朱雀天皇)、その中宮となった。せめて、皇子を出産して皇統につながっていれば、と思ってしまうが、皇子は生まれないまま、第二皇女の出産後に24歳で産褥死してしまった。