経済アナリストの森永卓郎さんは新卒で日本専売公社(現・JT)に就職したが、そこで壮絶な極貧生活を経験した。バブル期の暮らしに何があったのか。経済評論家の岸博幸さんとの対談をお届けする――。

※本稿は、森永卓郎、岸博幸『遺言 絶望の日本を生き抜くために』(宝島社)の一部を再編集したものです。

「天下のJT」で経験した極貧生活

【岸博幸】森永さんは東京大学を卒業後、1980年に日本専売公社(現・JT)に就職されましたが、間もなく退職されています。これはどうしてですか?

【森永卓郎】在籍という意味では10年近くいたのですが、私の場合はもっと切実な問題があって、「超貧困」になってしまったんです。

【岸】天下のJTで働いていて、貧困ですか?

【森永】専売公社って「公社」という名がついているものの、その実態は旧大蔵省専売局のままだったんですよ。

【岸】戦後間もない1949年まで、塩やたばこなどの専売業務を行っていたのが大蔵省専売局でした。それが独立して専売公社になったわけですが、実態は変わっていなかったということですね。

【森永】そうなんです。たとえば、事業活動に関しても、予算制度の下に置かれていて、大蔵省から予算をもらってこないと鉛筆一本買えない仕組みになっていました。

私は専売公社に就職した後、1984(昭和59)年から当時の経済企画庁に出向しました。経企庁は総理府の外局、つまり実態は役所だったのですが、特殊法人だった専売公社からそこに出向して行政の仕事をしたわけです。ただ、出向期間中に専売公社が民営化されて、現在のJT(日本たばこ産業株式会社)になりました。

【岸】1985年のことでしたね。

民営化で給料が手取り13万円に

【森永】民間企業からの出向者に対しては経済企画庁から、給料のうち手当分が支給されるルールになっていたのですが、突然の民営化によって、その財源となる予算が確保されていなかった。そのため、私はJT側が負担する基本給相当の部分だけしかもらえなくなってしまったんです。

もちろん、経済企画庁の秘書課には厳重抗議をしましたが、「お前の後任者からちゃんと予算措置をして支払う。悪いけれど君は我慢しなさい」と言われて、取り合ってくれなかったんです。その結果、基本給しかもらえなくなり、当時の手取りは約13万円しかなかった。長男も生まれていたんですけどね。