「石投げ」で肘の使い方を習得した少年時代

【川口】海岸で石を投げて、何段ハネるか競い合ってました。(立ち上がって左腕を横から振って)こうやってサイドから石を投げるじゃないですか。この肘の使い方って、ピッチャーゴロをとって、ファーストにふわっと投げるときと同じなんです。

【武中】遊びながら肘の使い方を習得していた(笑い)。子どもの頃からプロ野球選手になるつもりでしたか?

【川口】ぼくは3人兄弟の末っ子なんですけれど、上の2人が無茶苦茶野球が上手かったんです。兄を見ながら野球をしていただけでした。ぼくは投げるのは左なんですが、右打ち。(右打ちの)兄の真似をしていたら、右打ちになってしまった(笑い)。

川口和久さん
撮影=中村 治
元プロ野球選手・コーチで野球解説者の川口和久さん

【武中】左投げは川口さんだけ?

【川口】ぼくだけです。旅館やっていることもあって箸を左で持つなと親からきつく言われて、日常生活では一生懸命矯正しました。ぼくは右手で鉛筆持ちながら、左手に消しゴム。ハサミも両手で使えます。

【武中】外科医の世界では、左利きの人は両手を使えるから手術が上手いっていう説があります。利き手ではない方を使わなければならないので器用になるのかもしれません。

高校3年で契約金3500万円のドラフトを拒否した理由

【武中】川口さんは中学校卒業後に地元の鳥取城北高校に進みました。他県からも誘いがあったのではないですか?

【川口】ありました。でも一番熱心に誘ってくれたのが鳥取城北でした。

【武中】どの高校に行くかというのは、一つの大きな選択ですよね。

【川口】ぼくの場合は鳥取城北が合っていたと思います。というのも、ほとんど教えられなかったんです。当時の鳥取は(読売)ジャイアンツ戦しか中継がなかった。(同じ左投げの)新浦(壽夫)さんの脚の上げ方とか真似ていたら、球が速くなった。

【武中】真似ることで自分のスタイルを確立した。高校生のときにはすでに全国に名前を知られるようになり3年生のときロッテ(オリオンズ 現千葉ロッテマリーンズ)からドラフト指名を受けました。

【川口】(監督だった)金田(正一)さんから電話がかかってきて、「俺の背番号34と契約金3500万円約束するから来い」って。ロッテに行くとすごく走らされるという印象があった。高校から入るよりも社会人で即戦力としてプロ入りした方がいいという考えもあったので断りました。

【武中】そこで鳥取城北から大阪にあった社会人野球のデュプロに進まれた。そこでは野球中心の生活だったんですか?

【川口】仕事8割、練習2割でした。朝から夕方5時まで営業マンとして普通に仕事していました。仕事が終わったら(大阪の)中之島公園を走って、会社の屋上にあったブルペンでピッチングして帰る。専用のグラウンドもなかったので全体練習場所も日替わりでしたね。