「何でもやる」精神が大衆に刺さった
さまざまな身分が集う吉原を商圏としてスタートした蔦重は、あらゆる客層に気に入られるチャンスに恵まれていたともいえる。
だからこそ、マニアックな吉原細見本の出版から脱皮し、地本問屋(地本屋)として浄瑠璃本・黄表紙・洒落本・往来物・狂歌絵本・浮世絵の出版に打って出て、日本橋にも進出。さらに、幕府の弾圧を受けたのちに、書物問屋(書物屋)として学術書・専門書の出版にまで手を広げた。
そのとき、本に掲載した有名戯作者・絵師たちによる各商店・商品の広告は、文人墨客や大衆に「何でもやる」蔦重の名を大いに広めてくれたことだろう。
さらに、幕藩体制において参勤交代が行われていたことから、大名たちは江戸に1年、国元に1年暮らしていた。蔦重の評判は、江戸の藩邸(上屋敷・中屋敷・下屋敷)において、大名や藩士たちに共有されるとともに、全国へ広がる可能性もあった。上級武士たちは今でいう貴重なインフルエンサーであった。
出版業界の覇権が上方から江戸へ
江戸時代前半に、出版業界の主導権を握っていた上方(京都・大坂)の版元たちにとっても、江戸時代の中期以降、経済の中心が江戸に移っていく中で、圧倒的な勢力を誇る蔦重の耕書堂が大きな脅威となった。
ゆるい「田沼時代」を経た厳しい「寛政の改革期」という幕政を背景に、庶民にとって心理的な仮想敵である御上(御公儀)にあえて逆らい、処罰を受けたことも、「みんなの味方! 蔦重」を自己プロデュースする上で結果的に正解だった。
また、自分を養子に出した両親を呼び戻して養ったり、一時は離れていった喜多川歌麿を許したり、若手作家の曲亭馬琴や十返舎一九の面倒を見たりしたことも世間には好印象を与えた。文人たちを豪快に接待し、みずから狂歌師として連に加わるなど、話題作りにも事欠かない。
このような「生きざま」を見せつけて築いた身代(財産)に恋々とせず、すっぱりと番頭にすべてを譲る晩年も含め、メディア王による「蔦重」という一幕芝居は、40年間にわたり千両役者を得たのである。