当時の江戸の本屋は「やりたい放題」
江戸の出版界には二つのタイプがあった。もともと文化水準・経済水準が高かった上方(京都・大坂 ※現在の大阪)の資本が経営する専門書を主に扱った「書物問屋(書物屋)」と、江戸時代中期以降急速に発展した、江戸の資本が経営する大衆書を主に扱った「地本問屋(地本屋)」である。蔦重の耕書堂は、もちろん後者であった。
大衆書とは、絵入り小説の草双紙(子ども向けの赤本という絵本から始まり、大人向けの黒本・青本と発展し「黄表紙」「洒落本」「読本」「滑稽本」「人情本」につながる)や浄瑠璃本、各種案内書などを指す。
また、春画・人物画・風景画などの浮世絵(現世の世相・風景を描いた絵)版画も販売していた。
地本屋では、現在でいう小説・絵本・歌集・アダルト本・ガイドブックのようなものを広く扱い、さらに江戸には和漢物を扱う本屋、漢籍専門の唐本屋、写本を扱う書本屋などもあった。
8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」期に、統制のため「仲間」と呼ばれる組合の結成を命じられたり、幕政への批判を監視するために出版統制令を出された書物屋とは違い、当時の地本屋は相対的にやりたい放題だった。
世界最大の「消費都市」で版元として活躍
当時の江戸は、100万人を超える世界最大の「消費都市」で、貨幣経済が大いに発展した。その勢いある経済が生み出す商品の広告が、上方(京都・大坂)にならって刊行点数を増やしてきた書籍や浮世絵に掲載されたのである。
蔦重は販売代理店としての卸売・小売のみならず、版元としての活動を広げることでメディア王への道を開いていった。
吉原で蔦重が始めた小さな本屋は、日本橋大伝馬町に古くからある鱗形屋孫兵衛の「鶴鱗堂」が版元だった吉原細見本『細見嗚呼御江戸』の卸売・小売からスタートしている。そのとき編集者としてかかわった蔦重は、平賀源内に「福内鬼外」名義で序文を書いてもらったことで彼との接点ができた。