定子とその兄弟の自滅
最初は定子の側、すなわち中関白家が自滅した。道隆の遺児の伊周と、その弟でドラマでは竜星涼が演じている隆家は、道長との反目を強めたものの、反撃する以前に、みずからの失態で退けられてしまった。
長徳2年(996)正月14日、伊周と隆家は故藤原為光の家で、花山院およびその従者たちと乱闘騒ぎを起こし、法皇の従者2人を殺害してしまう。これを機に、伊周らは詮子を呪詛した等々、ほかの嫌疑もかけられ、ついに一条天皇は4月24日、内大臣の伊周は太宰権帥に、中納言の隆家は出雲権守に降格のうえ、即刻配流するように命じたのである。
ところが、伊周と隆家は情けないことに出頭せず、姉妹である定子の御所(実家である二条宮)に立てこもった。このため強制捜査の対象となり、検非違使に乗り込まれて隆家は捕らえられたが、伊周は逃亡。いったん出家姿で出頭するも、太宰府に護送される途上で病気と偽り、ひそかに上京してふたたび定子のもとにかくまわれた。が、結局は見つかり、太宰府に送られている(長徳の変)。
味噌がついたのは定子である。後ろ盾を失ったばかりか、出頭すべき人間を無用にかくまってしまった。このため騒動のさなかの5月1日、髪を下ろして出家している。
それでも一条天皇の寵愛は変わらず
こうして、道長は政敵を敵失によって退けたわけたが、倉本一宏氏は「ただし、伊周の妹である定子に対する一条の寵愛は変わるものではなく、その点では道長の権力は盤石とは言いがたいものであった」と書く(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。
事実、伊周と隆家が事件を起こしたのちに(さすがに出家する前だったようだが)、定子は一条天皇の最初の子を身ごもっていた。
ただし、公卿たちは、道長が定子を邪魔に思っているのを認識していたようで、彼女が懐妊後に、内裏から二条宮に帰るときは、みな道長に遠慮し、だれも定子のお供の行列には加わらなかったという。その後も、長徳2年(996)夏には二条宮が全焼し、10月には母の貴子が没するなど、定子をめぐる不幸は続いた。
それでも、一条天皇の寵愛だけは変わらず、12月16日、定子は第一子である脩子を出産した。そして、翌長徳3年(997)6月、一条天皇は出家している定子を、三后に関する事務を執り行う職曹司に戻した。こうして出家しながら宮中に戻った定子と、そんな彼女を寵愛し続ける一条天皇に対しては、風当たりも強かったようで、藤原実資の日記『小右記』にも、そう思わせる記述がある。
なかでも道長は、この2人の関係を自分の権力基盤を揺るがすものととらえ、「対策」を急ぐことになった。